コラム

イラクで再現される「アラブの春」

2019年11月06日(水)17時00分

バグダッドのタハリール広場を埋めるデモの群集(11月2日) Sabe Kareem-REUTERS

<宗派を超えて広がり、あらゆる政党の介入を拒否するイラクの反政府デモは、まるで8年前にエジプトでムバラク政権を倒した「アラブの春」の第2幕>

IS(自称「イスラム国」)の脅威にようやく終わりを告げたイラクで、今年10月に入って再び世界を驚かせる事態が起きている。それは連日イラクの各地で繰り広げられている、数百万人規模の反政府デモだ。

10月1日、首都バグダードの中心部にあるタハリール広場に、若者中心に数千人のデモ隊が集まり、政府批判を開始した。そこに政府の治安部隊が出動し、デモ隊に向けて高圧水射砲と催涙弾で鎮圧を開始、2人が亡くなった。完全に丸腰のデモ隊で死者が出たことから、デモ隊や市民の間に怒りが爆発、政府に対する反感がさらに高まった結果、デモ隊に合流する支持者の数は日に日に増えた。事態の急速な展開に慌てた政府は外出禁止令を発令、ネットやSNSなどの通信を75%カットし、盛り上がる反政府の声を押しとどめようとしたが、すべて逆効果、タハリールのデモ隊は膨れ上がるばかりか、南部の諸都市でも並行して反政府デモの火の手が上がった。デモ開始から5日間で、死者数は90人近くにまで上った。

デモは、10月半ばのアルバイーンというシーア派の宗教行事の数日間、沈静化したが、10月25日から再び各地で開始、タハリール広場に集まる人々の数は毎日数百万人規模に増え、10月中の死者数の合計は少なく見積もっても250人と報じられている。だが、デモ隊の勢いとそれへの市民の支持はますます高まり、とどまるところを知らない。10月8日にはポンペオ米国務長官がイラク政府に暴力行使の自制を求める発言をする一方で、同月30日にはイランのハメネイ最高指導者が、イラクの混乱はアメリカに煽られていると述べるなど、米・イラン関係にも影響しそうだ。

戦後のイラクで、反政府デモは珍しいものではない。これまでも南部のバスラを中心に、失業や生活苦、地方行政への不満を掲げて、毎年夏になると連日のようにデモが繰り広げられていた。戦争から16年経ても経済は全く回復しない、就職口もない、電気や水など日常必需品も十分ではない。特に夏になると、連日50度以上という酷暑のイラク南部では、停電が応える。2018年はチグリス川の水の汚染が深刻な問題となり、飲料水不足はむろんのこと、水産資源が破壊されて漁業に打撃を与えた。

宗派の違いを超えた国民運動

なによりデモ隊が問題視するのは、中央、地方政府の政治家、役人の腐敗、汚職である。2014年のトランスペアレンシー・インターナショナルの報告書では、世界175か国のうち、イラクの公明正大性(腐敗のバロメーター)は下から6番目だった(イラクより悪かったのは、北朝鮮、南北スーダン、ソマリア、アフガニスタンである)。批判を受けて政府は汚職撲滅の試みを口にするものの、その後も改善の兆候はなく、政府閣僚はもちろん各県の知事や県議会議長などの主要ポストに就くものたちは、その地位を利用して多額の資金を思いのままにしてきた。過去何年にもわたってデモ隊が批判してきたのは、こうした政府要人の権力と政府予算の私物化だった。

デモ隊の批判対象が、政府の腐敗と社会経済問題というこれまでと変わらぬ点だとすれば、なぜそれが突然10月1日に火を噴いたのだろう? デモ隊の主流は、大学生など若者たちだが、その数日前のバグダード市内の大学の様子はいたって平穏だったし、学生も教員たちも普段通り、夏休みの最後の週を楽しむ姿しかなかった。それが何故突然、治安部隊と衝突することになったのだろう?

引き金のひとつと言われているのが、9月25日の首相府前のデモでデモ隊に被害が出たことである。大学生中心のこのデモは、失業を問題視する程度の、小規模なものだった。だが、それに武装車両を動員した治安部隊が対峙し、圧倒的な規模でデモ隊への鎮圧を図ったのである。その結果、女子大生も含め、多くの負傷者が出た。この政府の対応が、平和裏のデモに対する対応として一線を超えたとみなされた。

27日に、国民から支持の厚い治安関係の要人の1人が解任されたことも、デモ隊の政府不信を高めたと言われている。10月初めにデモが激化した後、国家安全保障担当顧問でIS掃討作戦を行ったPMU(人民動員機構)の責任者でもあったファイヤーズは、デモ隊の行動を「外国の手先」と呼び、これに対して断固たる措置を取る、と脅したが、こうした政府の強圧的な姿勢がデモ隊の反政府意識を煽ることになったのだろう。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

「世界経済安定へ重要な一歩」、米関税一時停止で欧州

ビジネス

ファーストリテ、通期最高益に上方修正 北米は関税な

ワールド

台湾、対米輸入2000億ドル増を検討 LNG購入拡

ビジネス

アングル:米金融業界首脳、貿易戦争による反米感情の
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ関税大戦争
特集:トランプ関税大戦争
2025年4月15日号(4/ 8発売)

同盟国も敵対国もお構いなし。トランプ版「ガイアツ」は世界恐慌を招くのか

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク色」に心打たれる人続出
  • 2
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最強” になる「超短い一言」
  • 3
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた考古学者が「証拠」とみなす「見事な遺物」とは?
  • 4
    【クイズ】ペットとして、日本で1番人気の「犬種」は…
  • 5
    投資の神様ウォーレン・バフェットが世界株安に勝っ…
  • 6
    まもなく日本を襲う「身寄りのない高齢者」の爆発的…
  • 7
    「やっぱり忘れてなかった」6カ月ぶりの再会に、犬が…
  • 8
    「ただ愛する男性と一緒にいたいだけ!」77歳になっ…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    毛が「紫色」に染まった子犬...救出後に明かされたあ…
  • 1
    ひとりで海にいた犬...首輪に書かれた「ひと言」に世界が感動
  • 2
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク色」に心打たれる人続出
  • 3
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 8
    ロシア黒海艦隊をドローン襲撃...防空ミサイルを回避…
  • 9
    「吐きそうになった...」高速列車で前席のカップルが…
  • 10
    紅茶をこよなく愛するイギリス人の僕がティーバッグ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    ひとりで海にいた犬...首輪に書かれた「ひと言」に世界が感動
  • 3
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク色」に心打たれる人続出
  • 4
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛…
  • 5
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の…
  • 6
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 7
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 8
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 9
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 10
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story