ウクライナ情勢をめぐる中東の悩ましい立ち位置
ポーランドへ逃れる列車に乗るために列を作るウクライナの避難民(西部の都市リビウ、7日) Marko Djunca-RETERS
<ウクライナに国際社会の全面的な支援、同情が向けられていることに、中東のみならず非欧米社会は「ダブル・スタンダード」を見ている>
2月も終わりの頃、レバノンの友人からアラビア語の落書きの写メが送られてきた。「第一次大戦の開戦日1914年7月28日:19+14+7+28=68、第二次大戦の開戦日1939年9月1日:19+39+9+1=68、第三次大戦の開戦日2022年2月24日:20+22+2+24=68」。第三次大戦の開始日、とされたのは、ロシアのウクライナ侵攻の日である。
第三次大戦を想定するほど、ウクライナでの戦争は、中東に深刻な緊迫感をもたらしている。黒海を挟んで北と南にウクライナとトルコが位置していることを見ても、中東が現下の紛争地域に地理的な危機意識を実感していることは、明らかである。
歴史を振り返っても、ロシア/ソ連は常に、中東・イスラーム地域の北片を脅かす存在だった。2014年にロシアに編入されたクリミアは、15世紀にはオスマン帝国に帰属していた。ロシアとオスマン帝国の間では、16世紀から第一次大戦までの間、11回にもわたり戦争が繰り広げられ、オスマン帝国の縮小、弱体化を生んだ。ロシアからソ連に代わって以降は、第二次大戦末期にイラン北部を軍事占領、南部を支配していた英国と一触即発となった。1979年のソ連軍のアフガニスタン軍事侵攻は、冷戦後期において最も東西陣営を緊迫させる事件だった。
しかしながら、ソ連の中東におけるプレゼンスは、70年代後半以降大きく後退していた。社会主義体制を取り、ソ連の軍事援助に依存していたアラブ民族主義諸国のうち、エジプトは70年に入るとソ連の軍事顧問団を追放し、キャンプデービッド合意(1978年)により親米路線に転換した。産油国のイラクは、70年代の石油収入増を背景に西欧先進国との関係を回復し、ソ連からの経済支援に依存する必要がなくなった。
敵の敵は友
冷戦終結後、ロシアが中東で大きな役割を果たすことは、武器輸出や、安保理常任理事国としての発言力への期待を別にすれば、さほど大きくなかった。もっとも、ロシアが冷戦時代のソ連のように常任理事国としてこれらの国々を守ってくれることは、ほとんどなかった。
それが急速にプレゼンスを高めるようになったのは、シリア内戦以降である。ロシアがアサド政権を全面的に支援して、反政府派を支援するトルコとの間でしばしば軍事衝突を繰り返したことは、記憶に新しい。また両国は、リビア内戦でもそれぞれ対立する側を支援して介入してきた。さらにイランも、対米関係が悪化するのに平行して、ロシア、中国への依存度を高めた。
つまるところ、冷戦後の中東では、反米政権がアメリカからの圧力に対抗するためにロシアに接近したに過ぎない。そこにはイデオロギー的な親近感があるわけでも、歴史的な友好関係が築き上げられているわけでもない。「アメリカ」との関係の副産物として、「敵の敵は友」という一時的なものとして、ロシアに対する依存状況が生まれただけである。まあ、冷戦期でも似たような状況ではあったのだが。
とはいえ、こうした中東のロシア依存の国々は、今回のウクライナ危機でも国連総会でのロシア非難決議に反対ないし棄権した。シリアは反対したが、イランが「反対」ではなく「棄権」したのは、核開発交渉を抱えた対米関係を刺激したくなかったからだろう。一方で、イランの意向を強く受けて棄権にまわったイラクでは、親イラン派民兵勢力が「プーチン礼賛」の巨大な看板を掲げたところ、それに反発する若者たちに引きずり降ろされたと報じられている。
しかし、ウクライナ情勢が中東社会にとって悩ましいのは、単に政権が反ロシアか親ロシアかという単純な問題では整理できない、ということだ。なによりも、「ロシア批判」がイコール「ウクライナ支持」にはならない。
再び市街戦に? 空転するイラクの政権 2022.09.01
ウクライナ情勢をめぐる中東の悩ましい立ち位置 2022.03.08
第5回国会選挙が、イラク政界にもたらす新しい風 2021.10.20
何が悪かったのか:アフガニスタン政権瓦解を生んだ国際社会の失敗 2021.08.19
東エルサレム「立ち退き」問題で激化する衝突 2021.05.12
ローマ教皇のイラク訪問は何を意味するのか? 2021.03.11