コラム

映画『憂鬱之島』に込められた香港の怒りと悲しみ

2022年07月20日(水)16時50分
『憂鬱之島』

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<文化大革命から逃れるために恋人と海を泳いで渡ってきた老人、天安門事件で権力と闘いながら香港へ逃げてきた男、政治運動から経済にシフトを移して権力への抵抗を諦めた男──なぜ「ブルーアイランド」なのか。観ればその意味が分かる>

かつて香港情勢はニュースのトップだった。その後に新型コロナウイルスの蔓延やミャンマーのクーデター、ロシアによるウクライナ侵攻などが起きて、いつの間にか香港情勢は日々の報道の前面から消えた。

ただしこれは香港だけではない。何も解決していないのにミャンマー報道はほぼ途絶え、新型コロナのニュースも最近は前面から姿を消し、5カ月近く続くウクライナ報道も、気が付けばずいぶん後退している。

ある意味で仕方がない。人の興味や関心は移り気だ。そしてテレビや新聞などマスメディアは市場原理で動く。つまり社会の多数派の興味や関心が反映される。こうして情報は淘汰される。

ある意味で仕方がないとは書いたけれど、それが良いとは決して思わない。香港もミャンマーも、あるいはシリアやアフガニスタンも、最初の衝撃が過ぎた今こそ大切な時期のはずなのに、ほぼ世界の関心から取り残されている。40万人近い命が犠牲になっているイエメン内戦は進行形だけど(現在は停戦中)、これを知る日本人はとても少ない。ほぼ報道されないからだ。

市場原理は映画も同様だ。ただし、そのマーケットが必ずしも多数派の興味や関心を反映しない場合もあるドキュメンタリー映画は、狭くてニッチなテーマに特化することが可能だ。これを言い換えれば、丁寧さや完成度よりも、強いテーマ性や迅速性を求められる傾向が強いということになる。その帰結として多くのドキュメンタリーの手触りは、現実を過剰に加工すべきではないとの抑制も働くゆえか、(自戒を込めて書くが)かなり粗い。

前置きが長くなった。日本と香港の合作で、多くの映画祭で話題となり、7月に日本で世界初公開された『Blue Island 憂鬱之島』は、実に緻密でウエルメイドなドキュメンタリーだ。圧倒的な撮影と練りに練った編集が、中国の近代化のきしみと矛盾、香港と中国の歴史の相克、そしてドキュメンタリーにおける実とドラマにおける虚の融合を提示する。

文化大革命から逃れるために恋人と共に海を泳いで香港島に渡ってきた老人、天安門事件で権力と闘いながら香港へ逃げてきた男、そして没入していた政治運動から経済にシフトを移して権力への抵抗を諦めた男。この3人をメインの被写体にしているが、ラストのサイレント・レジスタンスが示すように(このシーンは本当にすごい)、被写体は香港に生きる全ての人たちだ。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アングル:息潜める米社債市場、発行が事実上停止 ト

ワールド

米政府、移民やビザ申請者のSNS投稿検閲 「反ユダ

ビジネス

中国CPI、3月0.1%下落 PPIマイナス続く 

ワールド

減税前提なら現金還付に一定の理解、つなぎ措置として
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ関税大戦争
特集:トランプ関税大戦争
2025年4月15日号(4/ 8発売)

同盟国も敵対国もお構いなし。トランプ版「ガイアツ」は世界恐慌を招くのか

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク色」に心打たれる人続出
  • 2
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最強” になる「超短い一言」
  • 3
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた考古学者が「証拠」とみなす「見事な遺物」とは?
  • 4
    【クイズ】ペットとして、日本で1番人気の「犬種」は…
  • 5
    投資の神様ウォーレン・バフェットが世界株安に勝っ…
  • 6
    まもなく日本を襲う「身寄りのない高齢者」の爆発的…
  • 7
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 8
    毛が「紫色」に染まった子犬...救出後に明かされたあ…
  • 9
    「やっぱり忘れてなかった」6カ月ぶりの再会に、犬が…
  • 10
    ロシア黒海艦隊をドローン襲撃...防空ミサイルを回避…
  • 1
    ひとりで海にいた犬...首輪に書かれた「ひと言」に世界が感動
  • 2
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク色」に心打たれる人続出
  • 3
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    ロシア黒海艦隊をドローン襲撃...防空ミサイルを回避…
  • 8
    「吐きそうになった...」高速列車で前席のカップルが…
  • 9
    紅茶をこよなく愛するイギリス人の僕がティーバッグ…
  • 10
    【クイズ】日本の輸出品で2番目に多いものは何?
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    ひとりで海にいた犬...首輪に書かれた「ひと言」に世界が感動
  • 3
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク色」に心打たれる人続出
  • 4
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛…
  • 5
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の…
  • 6
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 7
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 8
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 9
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 10
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story