コラム

タブーだった「嘘」という言葉をばらまき始めたイギリス人

2016年10月20日(木)18時40分

Luke MacGregor-REUTERS

<英社会を二分したブレグジットの国民投票以降、イギリスではそれまで避けられてきた、相手の発言を「嘘だ」と断言することが普通になってしまった>(写真:先月ロンドン市内のデモで衝突するEU離脱派と残留派の人々)

 今年6月、イギリスでジョー・コックスという若き女性下院議員が殺害された。国中に衝撃を与えた恐ろしい事件だった。遺族は当時、政治的議論が「粗雑化」してきているのをコックスが気に病んでいたと話していた。事件はその流れの中で起きたと考えるべきだということだろう。

 でも僕は当時、むしろこれは1人の人物が起こした「異常な」事件だと考えていた。政治的理由からの殺人は、この国ではきわめて稀だ(北アイルランド問題をめぐる長い暴力の歴史を除けば)。コックス殺害事件の被告人の男は現在公判中だが、報道によれば彼は、イギリスでは決して一般的でない過激主義思想の持ち主らしい。

 それでも今になって、僕は分からなくなってきた。ブレグジット(イギリスのEU離脱)の是非を問う国民投票を前にした議論は、通常より厄介なものだった。「離脱派」は外国人嫌いで偏見があり、偏狭な人々だと言われてきた。一方で「残留派」は、非愛国的で傲慢な都市部のエリート層だと批判され続けている。こうした非難の応酬はほとんどが一般市民の間で飛び交っているものだけれど、どうやらある程度、政界指導者たちにまで逆流しているように見える。

 何より顕著なのが、多くの人々が「嘘」という言葉を語り始めたことだ。

【参考記事】英EU離脱の「勝者」はニューヨーク

 これまで、少なくとも政治関係者やコメンテーターなど公的な立場にいる人は、この言葉は使わないのがある種のエチケットだった。だから「嘘」という言葉を耳にすることはほとんどなかったが、かろうじて許される婉曲表現はいくつかあった。たとえば、誰かが「ミスリーディングしている」とか、「事実を誤って伝えている」とか。さらに強調したい場合は「きわめてミスリーディングしている」という言い方もありだ。

 もっと重要なことだが、誰かを「嘘つき」と呼ぶことなど絶対に避けなければならなかった。これはかなり直接的な非難の言葉だからだ。ある人が「真実でないことや一部真実でないことを広めている」とか、「真実をあいまいにしている」などという言い方なら耳にしたかもしれない。一時期よく使われたのは、「真実を出し惜しみしている」という表現だ。意図的に不明瞭にして真実を隠している場合は「逃げ口上」と表現された。

品性を疑われる言葉だったのに

 つまり、こうした言い回しがすべて人々に理解されていたのだ。「嘘つき」「嘘をついている」「嘘だ」などという言葉を使わなくても、言いたいことがきちんと伝わった。そうすることで、自分たちの政治は良識的だ、との理屈を守ることができた。僕たちは政策を議論しているのであって、意見が対立する人を人格攻撃しているわけではないのだ、と。

「嘘」という言葉は、最も極端な状況で爆弾のように投下するために「とっておく」ものだった。この言葉を気安く、あるいは日常的に使う人は、品性を疑われたり軽蔑されたりしたものだった。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 3
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 4
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 5
    感染症に強い食事法とは?...食物繊維と腸の関係が明…
  • 6
    フランス、ドイツ、韓国、イギリス......世界の政治…
  • 7
    オレンジの閃光が夜空一面を照らす瞬間...ロシア西部…
  • 8
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 9
    注目を集めた「ロサンゼルス山火事」映像...空に広が…
  • 10
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 8
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 7
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 10
    「腹の底から笑った!」ママの「アダルト」なクリス…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story