ドイツの街角から
チェルノブイリ原発事故直後に開催された自転車ロードレース 命をかけて走った旧東ドイツのサイクリストたち
今年は1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故から35周年を迎えた。爆発により、第4ブロックの炉心を保護する1,000トンのカバーが吹き飛ばされ、専門家によれば、1945年にアメリカが広島に投下した原子爆弾の400倍の放射能が放出されたという。
この事故から10日後、自転車ロードレース「国際平和レース」のスタート地点キエフに各国代表のサイクリストが集合した。
旧東ドイツの代表選手6名は、この事故を旧西ドイツのニュースで知った。東欧諸国はこの惨事に対し情報をほとんど開示せず、「平和レースには万全の対応をしており安全だ」と力説した。
チェルノブイリから南へ100キロに位置するキエフに向かったサイクリストたちは一体どんな思いでレースに出場したのだろう。
東のツール・ド・フランス
1948年から毎年5月に東欧および周辺国を舞台にして開催された平和レースは、スポーツシーズン開幕のハイライトとして大きな注目を集めた。
サイクリストたちにとって、このレースに出場できることは最高の栄誉だった。なかでも東欧諸国の代表選手はスポーツの域を超えた国家的な英雄だった。そして出場選手にとって最も重要でかつ困難なこのレースは、「東のツール・ド・フランス」と呼ばれていた。
5月6日から22日までの17日間にわたり行われた86年の平和レースは、キエフをスタートし、ワルシャワ、ベルリン、そして最終地点のプラハまで全行程2138kmの道のりだった。
旧東ドイツの代表選手だったオラフ・ルードヴィヒ氏(現在61歳)は、このレースをこうふり返る。
「妻はレース出場に厳しく反対した。汚染されたキエフに向かうことに大きな不安を抱えていたからです」
「しかし当局がキエフの放射線地獄に送りこんだとしても、すべてを犠牲にしても構わないと考えていた。幼い頃から平和レースのサイクリストになることを夢見続け、ついにその場にいることが許されると知った時は、信じられないほどうれしかった」
キエフでレースを行うことは単なるアマチュアロードレースではなく、政治的なレベルで決定されていた。旧東ドイツ代表選手として参加する使命があった上、辞退するという選択肢はなかった。ノミネートされていても断れば、そこでキャリアが永遠に終わってしまうことは明らかだった。
一部のメディアは、この事故が欧米のメディアや特定の政界に利用され、事実と異なる憶測で国民を煽っていると報道した。そして旧東ドイツでは、選手たちのトレーニングも庶民の日常生活も、すべてが平常通り行われていた。
このレースでキャプテンを務めたトーマス・バース氏(現在61歳)は当時の様子を明かす。
「我々は、当時の原発事故で浮上した欧米の不安材料が危惧であったことを示す使命もあった。サイクリストスーツを着た外交官と呼ばれるほど期待されていたこともあり、参加するかどうか議論の余地はなかった。だが、この事故は、マスコミにも私たちにも軽視されていた。そして危険性もあまり認識していなかった」
風が味方になったレース
著者プロフィール
- シュピッツナーゲル典子
ドイツ在住。国際ジャーナリスト協会会員。執筆テーマはビジネス、社会問題、医療、書籍業界、観光など。市場調査やコーディネートガイドとしても活動中。欧州住まいは人生の半分以上になった。夫の海外派遣で4年間家族と滞在したチェコ・プラハでは、コンサートとオベラに明け暮れた。長年ドイツ社会にどっぷり浸かっているためか、ドイツ人の視点で日本を観察しがち。一市民としての目線で見える日常をお伝えします。
Twitter: @spnoriko