ドイツの街角から
チェルノブイリ原発事故直後に開催された自転車ロードレース 命をかけて走った旧東ドイツのサイクリストたち
キエフに到着後、選手団が目にした街はまるでゴーストタウンのようだった。
「放射能は匂いも味もしない、感ずることもない。だが現地では、もっとドラマチックなものに違いないとうすうす気がついていた」と、バース氏は語り続けた。
「ひっきりなしに通りを走るタンカー噴霧器、放射線測定器を手にして歩き回る人達など、奇妙な風景だったことを覚えている」
テレビでは、「靴をアパートの外に出しなさい」「ほこりをためないように」「子供を外で遊ばせないように」と言われ続けた。遅くともその頃には、チェルノブイリでは放射能が漏れているに違いないということが明らかになっていた。
一方で、当時のキエフ副領事は、サイクリングチームに「すべて順調、健康被害はない」と伝えた。「状況は深刻だが、キエフ出発につき万全の準備を進めており、すべてコントロールしている」とレース主催者も報道した。
スタートラインに立ったのは11か国の代表選手だった。西欧から参加を予定していた9か国(旧西ドイツを含む)は辞退したが、フランスとフィンランドの2国は参加した。
一番手のバース氏は 走行中に転倒してしまった。道路に固着している放射性物質が付着したのでは?と不安が頭をよぎった。だが、出産間際の妻と生まれてくる子供を想い、目的地まで走り続けた。
旧東ドイツチームはソ連に次ぐ2位を獲得した。またルートヴィヒ氏は個人総合優勝を果たした。
とはいえ、86年のレース開催には批判の声もあがっていた。
「このレースはキエフで開催するべきではなかった。選手や関係者は、決して放射線の危険にさらされるべきではなかった。最終的には、風が味方となり放射能を吹き飛ばしてくれ、本当にラッキーだった。しかし、出場するという判断は非人道的なものだった」
チームメンバーや関係者は、実際にどれだけ危険な状態に置かれていたのかという疑問が残るものの、出場選手が無事に帰還できたことは奇跡としか言いようがない。
ちなみに平和レースは、1989年まで世界で最も重要なアマチュアサイクリングレースだったが、2006年に終了した。
1980年から90年まで平和レース代表選手だったルードヴィッヒ氏は、1988年ソウルオリンピックでロードレース個人サイクリストとしてゴールドメダルを獲得した。その後ツール・ド・フランスでは、ドイツテレコムチームコーチとして活躍。生まれ故郷東部の街ゲラを拠点として、今も自転車界に関わっている。
バース氏は、1980年から89年まで代表選手だった。現在、自転車メーカーの代表としてドイツ国内を飛び回っている。彼のアマチュアとしての最後のレースは、1990年のミュンヘンで行われた。1992年には、オランダのチームでツール・ド・フランスに出場した。
バース氏の息子は、1986年平和レース最終日5月22日に誕生した。2003年に自転車競技でドイツのジュニアチャンピオンになったが、その後プロサイクリストから退き、警察官として活動中という。
著者プロフィール
- シュピッツナーゲル典子
ドイツ在住。国際ジャーナリスト協会会員。執筆テーマはビジネス、社会問題、医療、書籍業界、観光など。市場調査やコーディネートガイドとしても活動中。欧州住まいは人生の半分以上になった。夫の海外派遣で4年間家族と滞在したチェコ・プラハでは、コンサートとオベラに明け暮れた。長年ドイツ社会にどっぷり浸かっているためか、ドイツ人の視点で日本を観察しがち。一市民としての目線で見える日常をお伝えします。
Twitter: @spnoriko