イタリア事情斜め読み
イタリア初の女性首相ジョルジャ ・メローニってどんな人?
イタリアに共和制が誕生してから76年後、イタリア史上初の女性首相が誕生、「ガラスの天井」が破られた。
これは、彼女が得られる結果に関係なく、歴史に残る特徴となるだろう。
イタリアの同胞 (FdI) 右派国民保守主義の政党を率いる党首、ジョルジャ・メローニ(45)は、10月21日(金曜日)にセルジョ・マッタレッライタリア共和国大統領からの首相候補指名を受諾し、翌日10月22日(土曜日)大統領府で「責任と誇りをもってイタリアに尽くす」と宣誓し、第68代イタリア共和国閣僚評議会議長に就任、新政権を発足させた。
メローニは、ユーロ懐疑論者ではなく、自身の政党イタリアの同胞は、自由主義と国民保守主義(イタリア・ナショナリズム)をスローガンに揚げた保守グループであると言っている。
「極右政党」でもなく、「ファシズムの再来」でもなく、ジョルジャ・メローニは「欧州で最も危険な女」でもない、親NATO姿勢とウクライナ支援、西側欧州連合の対ロシア制裁を支持し続け、国際協調路線をアピールしている。
欧州委員会委員長フォン・デア・ライエンはTwitterで
「私たちがともに直面する課題について、新政府との建設的な協力を期待し、一緒に仕事ができることを嬉しく思う」という内容の祝辞をメローニに送っている。
Congratulations to @GiorgiaMeloni on her appointment as Italian Prime Minister, the first woman to hold the post.
-- Ursula von der Leyen (@vonderleyen) October 22, 2022
I count on and look forward to constructive cooperation with the new government on the challenges we face together.
それに対し、メローニ首相も「ありがとうございます。私たちの共通の課題に対するEUの回復力を強化するために、あなたと協力することを熱望し、私たちは準備ができています。」とリプライを送っている。
| ジョルジア・メローニ(Giorgia Meloni)ってどんな人?
⭕️波乱万丈の生い立ち
1977年1月15日、北ローマでメローニ家に長女としてジョルジャは誕生した。
サルデーニャ島カリアリ出身の父フランチェスコ・メローニ、職業はコンメルチャリスタ(公認会計士・税理士・経営コンサルタント)で母アンナはシチリア島のメッシーナ出身で23歳でジョルジャを出産。
この年のイタリア・ローマは政治的暴力に満ちていた恐ろしい年であった。街頭で機動隊と衝突、ルチアーノ・ラマがサピエンツァ大学を占拠、大規模なデモの最後には、武器庫と新聞社イル・ポーポロが攻撃され、内務大臣コッシーガの指示で、デモ隊を鎮圧するためにデモ参加者を装った武装警察を送り込み戦闘員達を殺害した。
彼女が生まれた1977年は、そんなテロリズムの破壊力が爆発的に高まっていたという時代背景である。
ジョルジャは3歳のときにローマのガルバテッラ地区に移り、そこで幼少期を過ごした。
彼女は、昨年5月11日に自身の自伝となる著書「Io sono Giorgia」(私はジョルジャです)を出版している。
その中で、自分は気難しい性格で内向的な子供だったと振り返っている。幼少期はぽっちゃりの肥満体型であったため、その容姿について揶揄われ、イジメを受けた過去や公認会計士・税理士である父フランチェスコについては、彼女が2歳の時に愛人を作り、家族を捨ててスペインのカナリア諸島に出奔し、家を出て二度と戻って来ることはなかったということや、父が出て行った後、母は女手一つで姉妹は育てるため、多くの仕事を強いられこと、貧しい母子家庭であったことや、1981年のある日、ジョルジャと 姉のアリアナが部屋に置いていたろうそくに火をつけて遊んでいたら引火、住んでいたアパートが火事で全焼しホームレスになったことなど、自分の育った家庭環境と波乱万丈な生い立ちを赤裸々に綴っている。
姉アリアンナが1歳の時、母がジョルジャを妊娠した。その頃、両親の夫婦関係はすでに冷え切っており、危機に瀕していた。
父は母に中絶を迫った。母は、堕胎手術を受けるために病院に行ったが、手術前の検査に備え、絶食しておくようにと言われていたが、母親はなぜか外にあるバールに入り、わざとカプチーノとクロワッサンを注文した。(この瞬間、お腹の子を産むと決めた)と、ジョルジャは母に聞いた話を紹介している。母が中絶をしていたら、今、ここにジョルジャ・メローニは存在しない。
⭕️貧しい母子家庭で育った幼児期
母方の祖父母が住んでいたガルバテッラに小さなアパートを購入し、ゼロから生活を立て直そうとしたが、そこは以前暮らしていたカミルッチャの街とは非常に異なるアウレリアヌス城壁の外にある赤と黄色の家々が並ぶ南ローマの地区だった。
イタリアの日常を軽妙に描いたナンニ・モレッティ監督の映画「親愛なる日記」の中のシーンで、ナンニ・モレッティがヴェスパで駆け抜けた古くて、庶民的なあの下町だ。
ジョルジャがまだ物心もついていない頃にいなくなった父、記憶にもないその父フランチェスコと8歳の時に再会した。
そこから、1年に1〜2週間ほどのスタンスで姉と一緒に父にところに会いにいき、父と一緒に過ごす期間もあったというが、ジョルジャにとって、この数日間でさえ耐えられないほど長く感じたという。
そして11歳の時に、まだ小さな少女にしてはいけない話を父がしたことが原因で、再び父への嫌悪が始まり、「もう二度と会いたくない」と言い残し、絶縁状態になったという。
実際に、それから彼が亡くなる日まで一度も会ってない。
父フランチェスコ・メローニが亡くなった時は、彼女は「まるで見ず知らずの赤の他人の死を告げられた時のように、本当に何も感情が湧かなかった」と答えている。
⭕️家族を捨てた父への反骨精神の思春期
父親のいない母子家庭、偏った食生活で肥満体型になり、いじめられ、廃墟と化した荒れた地域で救いも光もない思春期をジョルジャ・メローニは「ディケンズ流の始まり」だと総称している。
不当な差別を受け、心は固く閉ざされ、劣等感と反骨精神が芽生え始めといったところであろうか。
父は左翼共産主義者で無神論者、母は右よりの資本主義者であった。
ジョルジャは15歳の時に、家族を捨てた父への復讐心から、父とは真逆の思想のイタリア社会運動(MRI)の青年組織である青年戦線の装甲扉をノックした。
著書の中で彼女は、「政治的闘争を受け入れた人々の多くは、特定の家族状況から来ている。政治的関与に最も専念していた少年たちの多くは、両親の離婚などが原因で、家族が離れ離れになり、おそらくいくつかの問題も抱えた状況で暮らしてきた。何でもいいから何かに属していたい、政治活動が唯一の心の拠り所であった。」と、思春期に経験したエピソードを語っている。
彼女の唯一の資格は、ローマのアメリゴ・ヴェスプッチ・インスティトゥート州立技術専門学校で言語成熟度60/60の得点で取得したディプロマのみが証書である。
この学校は、実際には言語学科のある高校ではなく、言語学専門の専門学校なので、最高学歴は専門学校卒ということになる。
彼女はスペイン語、フランス語、英語を流暢に話すことができる。
閣僚評議会の公式サイトに記載されている最終学歴が間違っているという指摘もされている。
⭕️唯一の心の拠り所が政治活動、政界デビューで頭角
彼女は、学生団体「Gli Antenati」を設立し、1996年には全国アライアンスの学生運動であるStudent Actionの全国学生団体代表を務めた。
1998年、21歳のとき、彼女は国民同盟のローマ管区の評議員に選出され、2002年までその職に留まり、2004年、ヴィテルボ全国大会でユースアクションの会長に選出され、「イタリアの息子」リストの先頭に立ち、右翼青年組織の最初の女性会長となった。
2006年、29歳で下院議員に初当選、2006年から2008年まで下院議員の副会長まで務めた。
2006年から2008 年まで、外部コミュニケーションおよび情報委員会の委員長を務めた。
2008年、ラツィオ州第2比例区で再選、第4次ベルルスコーニ政権で青年大臣(青年政策に関する無任所大臣)に任命され初入閣。
2008 年 8 月、メローニ青年大臣は、中国政府のチベット政策に反対して、北京オリンピックの開会式をボイコットするようイタリアのスポーツ選手に呼びかけ、北京のイタリア選手団は解散した。
同年9月、国民同盟内で反ファシズムに関する論争が起こった後、ジョルジャ・メローニは、
wikipediaより引用
「私たちは 80年代・90年代に生まれましたが、新しいミレニアムの時代では、憲法の基礎となっている価値観とファシズムと戦った人々にふさわしい価値観を尊重しすべて守られています。」
と宣言した。その際、青年ヘブライ人連合は彼女のこの宣言に満足を表明した。
2011年まで青年大臣の職を務め、自由の人々の統一プロジェクトに参加した後、解散。そして、彼女は*イグナツィオ・ラ・ルッサらと共に、右派兄弟の新しい政治運動「イタリアの同胞」を結党した。それ以来、イタリアの同胞の党首である。
2016年1月30日、ジョルジャ・メローニはファミリー・デー(家族の日)に参加し、 *チリンナ法案と同性愛カップルの権利に反対することを宣言した。またその時に、メローニはパートナーのジャーナリスト兼司会者のアンドレア・ジャンブルーノの子どもを妊娠していると公表した。なお、本人は、「赤ちゃんが生まれる予定だ」と宣言したについて、今でも自分自身を責めていると言っている。
中道右派連合からの擁立でローマ市長候補に立候補したが、妊娠中の出馬に嫌悪を抱く者や多くの人が彼女に中絶を望む人が多かったことや、彼女はこの時期にストーカーに包囲されていることにも気づき、怯える日々でとても苦しんだそうだ。
*チリンナ法案とは
異性間の婚姻に基づく家族の規定『憲法第29条、第79条及び同性(法第1条第1項から第35項) 』に、異性愛者と同性愛者の両方の未婚カップルの規制規則(第 1 条、段落 36-65、法律 76/1016)という新たな社会形成の表現が加えられた。
⭕️プライベートのジョルジャ
ジョルジャ・メローニは、1977年1月15日生まれ、巳年の山羊座、身長163cm、体重50kg強、献血を6ヶ月に1度必ずしているが血液型は公表されていない。
15歳で政界デビュー、Piperのバーテンダーやフィオレッロの長男のベビーシッターをしたり、ポルタポルテーゼにあるのレコード店の販売員のバイト経験がある。
サッカーチームはASローマのサポーターである。
現在45歳、歴代の最年少首相のランキングでは1位マッテオ・レンツィ(39歳で就任)、2位 ジョヴァンニ・ゴリア(44歳で就任)に続く3位である。
同3位で1954年1月18日に45歳で首相に就任したアミントーレ・ファンファーニもいるが、実際には議会での信頼を得られず、わずか22日後の2月10日に失脚したため、その政権は非常に短命な首相もいる。
彼女は、インタビューで、選挙の開始時に敵は少なくとも7人の男性がいたがそれについては全く恐れていなかったが、唯一恐れている大嫌いなものはゴキブリ。
3歳の時に溺れた経験があり、それ以来、水が大嫌いで頭を水の中につけるとパニックになる。顔を洗うのも一苦労だという。
幸せホルモンと呼ばれる「セロトニン」の分泌が少し不足しているそうで、増やす薬を服用していると答えている。
家族は、母アンナ、妹アリアンナ、事実婚のパートナーであるアンドレア・ジャンブルーノ、ジャンブルーノとの間に娘ジネーヴラ。
娘のジネーヴラの父親であり、彼女の事実婚のパートナーであるジャーナリスト兼テレビ司会者の*アンドレア・ジャンブルーノ(41歳)については、次のように語ってる。
「あなたがチームとして働くことができれば、愛は理にかなっています。まるで物事がすでにバランスが取れているかのようです。」や
「私は彼の原則を信じていても、結婚について彼には話しません」と言い、結婚については今はその時期ではない、事実婚のままで良いという考えである。
彼もまた同様の考えである。
*アンドレア・ジャンブルーノ氏は、イタリアの放送局マディアセットで12年間勤め、ジャーナリスト兼テレビ司会者、Tgcom24,Matrix,Mattino5でも裏方として働いていた。
2020年9月から、チャンネル・イタリアウノの番組ストゥーディオ・アペルトのニュースアンカーに抜擢された。
二人の出会いについては、アンドレア・ジャンブルーノ氏が「それは僕の一目ぼれでした」と、リーベロのインタビューの中で答えている。
初めて二人は出会ったのは、テレビ番組「キンタ・コロンナ」の舞台裏だったという。
ある晩、彼女は選挙集会を終えた後、キンタ・コロンナの番組に出演するために、スタジオに駆けつけた。彼女はスタジオに到着するまで何も食べておらず空腹状態。
彼女のマネージャーが、彼女のバッグからバナナを取り出して渡したが、バナナを2口だけ噛んだ後、すぐに本番でスタジオの現場に呼ばれてしまった。
ジョルジャは、食べかけのバナナを側にいたアンドレアに手渡したという。
「彼女は、完全に僕のことをADさん(アシスタント・ディレクター)だと間違えていました。でも、僕にとって、そのバナナは12万ユーロで販売された*『カテランのバナナ』よりも価値があるものでした。」と。
アンドレア・ジャンブルーノはミラノ人で、ジョルジャ・メローニはローマ人、そこから二人の遠距離恋愛が始まっている。
「 それから彼女は私に電話をかけてきました。それは偶然ではなく、いつも通りに平然を装い、僕もジョルジャに電話をするようになりました。最初は僕の一目惚れでしたが、彼女は非常に知的な女性で、彼女にどんどん惹きつけられていきました。 2016年に僕たちの間に小さなジネーヴラが生まれました。物理的(外面的)には、娘のジネーヴラの瞳の色はジョルジャと同じ色で、私にとって最も美しい瞳です。」とアンドレアは付け加え、ただただ惚気ていた。
*『カテランのバナナ』とは、
世界で最も重要な現代アートフェアの1つであるマイアミビーチのアートバーゼルでマウリツィオ・カテランが発表した新作。
ギャラリーの白い壁に、バナナをセロハンテープで貼り付けたものをニューヨーク出身のデヴィッド・ダトゥーナがバナナを取り、 数回かじってむさぼり食った。彼自身のスナックを一種の芸術的なパフォーマンスにしたもの。ただのかじられた食べかけのバナナが12万ユーロ(約1750万円)で落札された。
イタリア新内閣、メローニ政権の紹介については、後半に続く
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著者プロフィール
- ヴィズマーラ恵子
イタリア・ミラノ郊外在住。イタリア抹茶ストアと日本茶舗を経営・代表取締役社長。和⇄伊語逐次通訳・翻訳・コーディネータガイド。福岡県出身。中学校美術科教師を経て2000年に渡伊。フィレンツェ留学後ミラノに移住。イタリアの最新ニュースを斜め読みし、在住邦人の目線で現地から生の声を綴る。
Twitter:@vismoglie