注目を集める武蔵野市の住民投票条例案。「住民」とは誰のことか

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<地域で暮らす人々の背景が多様化するなか、そこでの政治参加の在り方に国籍で線を引き続けるべきか、議論がなされるべきだ>
東京都武蔵野市の住民投票条例案が注目を集めている。特に日本初というわけでもないのだが、外国籍住民にも投票を認める点が関心の理由だ。
折しも米ニューヨーク市では外国籍住民に選挙権を付与する法案が可決されたばかり。市長選などで新たに投票できる人々は80万人に上り、有権者の2割を占めるそうだ。
最初に述べておくと、私は外国籍住民の地方参政権は住民投票に限らず認める方向で検討を進めるべきだと思っている。国籍がどうあれ住民は住民だ。地域で暮らす人々の背景が多様化するなか、そこでの政治参加の在り方に国籍で線を引き続けるべきか、議論がなされて当然である。
ニューヨーク市の事例もさることながら、ヨーロッパなどでは既に一定の居住期間や在留資格の取得を要件として外国籍者に地方参政権を認めている国や地域も少なくない。実は日本の与党内でも意見が割れていて、公明党は永住外国人への地方参政権付与を選挙公約に掲げていた。
もちろん反対の立場からの意見があってよいと思う。だが、それにしても武蔵野市の条例案にかこつけた発言には目に余るものが少なくない。外国人に「乗っ取られる」というタイプの言説がその典型で、ヘイトや差別にもつながるものだ。
例えば、「やろうと思えば、15万人の武蔵野市の過半数の8万人の中国人を日本国内から転居させる事も可能。行政や議会も選挙で牛耳られる」(佐藤正久自民党参院議員)、「中国が多くの中国人を武蔵野市に集中させれば武蔵野市は乗っ取られる」(田母神俊雄氏)など、明らかに荒唐無稽な内容である。
だが両人ともツイッターのフォロワーは数十万人に上り、賛同のコメントも多数付いている。
自民党の長島昭久衆院議員の言葉にも問題を感じた。「参政権という国家の舵取りを担う責任は、その国家と運命を共にする意思を持った国民のみに存する(帰るべき母国が他にある外国人ではない)」とブログに記している。
日本国籍のある「国民」には「国家と運命を共にする意思」を持つことを迫り、外国籍者には「帰るべき母国が他にある」はずだと迫る。どちらの想定もおかしい。
特に後者については、日本で暮らし続けることを選ぶ外国籍者の存在も、あるいは日本生まれの外国籍の子供や若者たちの存在(そして両親が外国籍の場合にその子供を外国籍とする血統主義の国籍法の問題)も、見えていないのではないか。
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