コラム

プーチンで思い返す対ヒトラー「宥和政策」の歴史

2022年03月24日(木)16時45分

最も筋の通ったチェンバレン批判は、彼は愚かだったというものだろう。彼はヒトラーが何者であるか見抜けなかった。だがもしも彼が愚か者だったとしても、その愚かさは理解できるたぐいのものだった。

彼はドイツが文明的な国であり、ヒトラーは独裁者ではあるものの道理は通じるだろう、と想定した。それは深刻な誤算だったが、ヒトラーが人々を引き付け、衝撃を与え続けているのは、彼が政治や指導者としての立場や、さらには人間性についても、信じ難いほど常識の範疇を超えていたからだ。ホロコーストや第2次大戦について知っている僕たちには、ヒトラーのその特異性がはっきりと分かるが、チェンバレンがヒトラーと取引した際にはまだこれらは起こっていなかった。

平和と常識的な対応を期待して

チェンバレンに替わって政権を取ったウィンストン・チャーチル英首相は早くからヒトラーを正確に見抜き、彼の行動を非難してきた。だがチャーチルは一匹狼で、「荒れ野で呼ばわる者の声」だった。チャーチルは1930年当時にはかなり孤立した政治家だった。政治家としてのキャリアにおいて重要な問題でことごとく失敗してきたからだ。だが彼は、ヒトラーに関しては図らずも極めて正しい判断をした。

イギリス国民も、ヒトラーをどんなに軽蔑してはいようと、ドイツとは平和を望んだ。ズデーテン地方割譲を認める交渉を終えてチェンバレンがミュンヘンから帰国した時、イギリス国内では歓声が上がったことも思い出す価値がある出来事だろう。人々は、この成果は「私たちの時代のための平和」を意味すると受け止めたからだ。

「宥和政策」という言葉は難癖をつけやすいものでもある。宥和政策は今では汚い言葉として使われ、「いじめや攻撃に意気地なく屈する」との意味合いがある。1930年代には、この言葉はむしろ「外交を通じて国際問題を解決し平和を達成する」という意味が強かった。イギリスもフランスも、第1次大戦後のベルサイユ条約がドイツに対して敵対的すぎ、不当なまでに規制を課していると認識していたからこそ、宥和政策を進めた。

英仏は、規制のいくらかを緩和することでドイツが国家としての対等な地位を取り戻すことを許し、国際的な友好姿勢に向かうだろうと考えた。こうしてドイツは、ベルサイユ条約で禁じられた「通常の」国家ならできることを認められるようになった。つまり、陸空軍の再建、そして自国領土内に軍隊を派遣すること(ラインラント進駐)、そしてオーストリア併合......。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

中国軍が東シナ海で実弾射撃訓練、空母も参加 台湾に

ビジネス

再送-EQT、日本の不動産部門責任者にKJRM幹部

ビジネス

独プラント・設備受注、2月は前年比+8% 予想外の

ビジネス

イオン、米国産と国産のブレンド米を販売へ 10日ご
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 2
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2人無事帰還
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 5
    あまりにも似てる...『インディ・ジョーンズ』の舞台…
  • 6
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 7
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 8
    「隠れたブラックホール」を見つける新手法、天文学…
  • 9
    イラン領空近くで飛行を繰り返す米爆撃機...迫り来る…
  • 10
    【クイズ】アメリカの若者が「人生に求めるもの」ラ…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 3
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 4
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 5
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥ…
  • 6
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 7
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story