スペインあれこれつまみ食い
16歳から自己決定で性別変更可能に スペインのジェンダーに関する動きと国民の反応
日本のニュースで最近「LGBT法案」という言葉を耳にするようになりました。性的少数者に対する理解を促進する法案で、5月に開かれるG7広島サミットまでに成立させることを目指しているようですが、「LGBT理解増進法」とするか「LGBT差別禁止法」とするか与野党で意見が分かれており、それについての議論が盛んに行われているようです。さて、こちらスペインでは16日、新しく「トランス法」と「中絶法」という2つのジェンダーに関する法律が成立しました。特に世界で注目を集めているのはトランス法で、この法によってスペインでは16歳以上であれば自己申告で性別の変更を行うことが可能となります。
12歳から性別の変更が可能
これまでスペインで性別を変更するためには18歳以上で尚且つ医師による診断書と2年間のホルモン治療の証明書の提出が必要でした。しかしこの新しいトランス法によって、16歳以上であれば医師の診断や治療を行わなくても自己決定で性別を変更できるようになるのです。さらに14歳〜15歳は保護者の同意があれば、12歳〜13歳は司法の同意があれば性別変更が可能となります。
「今日はトランスジェンダーの人にとって歴史的な日となった」この法をリードしてきた平等省のイレネ・モンテロ大臣は閉会後に行われた記者からのインタビューにこう答え、採決の行方を傍聴席で見守っていたLGBTコミュニティーのグループと合流し喜びを分かち合いました。
自己決定・多様性教育
このトランス法のポイントは「自己決定」。この法律が成立したことによって、同性愛者やトランスジェンダーに対して治療と称してセラピー(転向療法)を行うことや、トランスジェンダーに性適合手術やホルモン治療を受けるように勧める行為などは自己決定の妨げになるとして最大15万ユーロの罰金が科せられることになります。また12歳以下への性適合手術は禁止とし法的な性別変更も認められませんが、学校や私生活においての性別や名前は自分で決定することが可能となり、周囲もそれに合わせた対応をとることが求められるようになります。さらに学校教育ではLGBTや家族の多様性に関するテーマがカリキュラムに含まれ、教員採用試験などでもこれらの知識が必要となります。
ヨーロッパ初の生理休暇
トランス法と同時に成立した中絶法の改正の中で注目を集めている項目は生理休暇の導入(3〜5日)でしょう。生理休暇は日本、インドネシア、ザンビアなど、世界的にもわずかな国でしか認められておらず、ヨーロッパでは初の導入となりました。休暇取得のためには医師の診断書が必要となり、休暇分の給与は雇用主ではなく社会保障制度から支払われることになります。この法律の成立には毎月生理痛に悩んでいる多くの女性からポジティブな意見が寄せられる一方で、雇用主が女性の雇用をためらってしまう可能性や、制度を利用して不当に休暇を取得する女性が出てくるのではないかと心配する声も上がっています。登録者350万人を超えるスペインの有名YouTuberジョルディ・ワイルドは、自身のチャンネルでこの生理休暇についてこうコメントしています。「日本やドイツのように勤勉の国では成立するけど、手を差し伸べたら腕まで持っていかれるような図々しいスペイン人相手では話が違う。日本ではこの制度があっても女性の取得率はたった0.9%だ。スペイン人がどんな国民性か知ってるだろ。俺たちは子供の頃からずる賢い。抜け道があったら使うさ。1ヶ月に1回病院に行ってお腹が痛くて耐えられないと言えば医者はそれが真実かどうか知る術はないんだ。水曜日に生理休暇をとって週末にかけて旅行に行く。絶対そういう奴は出てくるぞ。この法律はアジアで通用してもスペインでは機能しない。」
生理の貧困と女性の権利
この中絶法の改正は生理休暇の他にも様々な女性を保護するのための内容が織り込まれています。
中絶手術に関しては、16歳以上であれば中絶手術に親の同意を得るは必要なくなりました。またこれまで手術を希望する女性たちは受け入れてくれる病院を探す必要があり最終的にその多くが私立のクリニックで手術を受けていましたが、この法改正により今後は全ての公立病院が中絶希望者を受け入れることができるよう設備を整えることが求められるようになります。
さらに緊急避妊ピルは病院で無料で受け取ることができるようになり、生理の貧困対策として学校や女子刑務所、コミュニティセンターでは生理用品が無料で配布されることになりました。
変わりつつある「性別」の定義は言語にも・・・
スペイン語には男性名詞と女性名詞があり、形容詞もその対象が男性か女性かで単語が変化します。例外はありますが、多くの男性名詞は-oで終わり女性名詞は-aで終わるようになっているのです。
この法が成立した議会の中で、モンテロ大臣は「私たちの子供達が、全ての教育の場において性に対する義務教育を受ける権利を持つことの重要性もこの法では示しています」とスピーチをしたのですが、彼女が用いた「子供たち」の表現が今スペインで物議を醸しています。先ほど紹介したスペイン語のルール通り、スペイン語で「子供」と言いたい時、子供が男の子なら「hijo」、女の子なら「hija」となるはずなのですが、モンテロ大臣はここで「hijos, hijas e hijes」という表現をしたのです。日本語で表すのであれば「私たちのムスコ、ムスメ、ムスニたちが・・・」と発言するようなものでしょう。語尾を-oでも-aでもなく-eにするというのは、スペイン語圏のLGBTコミュニティの間で近年用いられている'中性'のノンバイナリーに配慮した表現の仕方のようなのですが、「hije」という言葉はスペイン語の公式辞書には載っておらず、この造語に違和感や拒否感を覚えるスペイン人は少なくありません。このモンテロ大臣の発言のあと場内からは大ブーイングが起こり、議長が数回に渡って静粛を命じる場面もありました。
Irene Montero lleva su lenguaje al Congreso: «Hijos, hijas e 'hijes'» pic.twitter.com/cBS6cLUf9x
-- El Debate (@eldebate_com) February 16, 2023
性別の表現に対する変化は、今回成立した法律にも反映されています。新しいトランス法では民法上の「父親」「母親」という言葉が削除され、代わりに「人間」や「妊娠中の親」など、婚姻関係や性別を固定しない言葉に置き換えられることになりました。近年のジェンダーに対する考え方の変化は、もはやスペインでは今まで存在していた言語を変えてしまうほど大きな動きとなっているのです。
トランス法に関する不安の声
トランス法で性別を自己決定で変えることができるというのは、LGBTコミュニティにとって大きな一歩となったのは間違いないですが、国民からは不安の声が多く上がっていることもまた現実。不安の声の内容としては、この制度を悪用して異性の更衣室やトイレを利用する人がいるのではないか、消防士などの入隊の際に行われる体力テストで有利になるよう女性に性別変更する人が出てくるのではないか、女性の支援制度を利用するために性別を変更する男性がいるのではないか、などです。心と身体の性が一致しているかどうかは本人にしか分からないので、例え明らかに悪用している人を見つけても本人が認めなければそれを証明することは出来ないですし、逆に差別されたと訴えられ罰金刑に処される可能性もあるので指摘することさえ容易に出来ないのです。
国民が不安を訴える理由はそれだけではありません。スペインでは同性間や女性から男性への暴力と比較して、男性から女性への暴力は罪が重くなり厳しく罰せられるのですが、トランス法はここにも影響を与える可能性があります。例えばある男女のカップルで女性が男性から日常的に暴力を受けているとしましょう。この状態で女性が警察に通報すれば男性は厳しく罰せられることになりますが、通報される前に男性が女性に性別変更してしまえば「同性間の喧嘩」とみなされ「男性から女性への暴力」が適用されなくなるのです(もし性別変更前に立件されていたら、女性に性を変えても男性の時の罪として罰せられます)。男性から女性への暴力に対する厳しい取り締まりは、過去に女性たちが声を上げて勝ち取ってきた権利。それを台無しにしてしまう可能性があるのではないかという指摘が相次いでいるのです。
LGBTコミュニティやフェミニストたちの中にはこれらの不安の声に気分を害してしまう方もいるようですが、国民に不安を与えている対象となっているのはトランスジェンダーの方ではなく、'トランスジェンダーと偽って利益を得ようとする心と身体の性が一致している人'であるということは強調しておかなくてはなりません。トランスジェンダーの方が自分のアイデンティティに沿った性別に変更することに関しては多くの人は賛成しているはずです。
スペインは進んでいる?
「海外はジェンダーに対する理解が進んでいる」という認識は日本において少なからずあると思います。確かに同性婚も認められていて女性の管理職も多く、LGBTに対する動きもスピーディーなスペインですが、今回の制定された法律をはじめとする最近のムーブメントを「進んでいる」と表現できるのかどうかはまだ先にならないと分からないと私は思うのです。今の段階では新しく作り出された中性名詞も、見た目が完全なる男性の人が女子トイレを使うことにも違和感を覚えますが、もしかしたら10年後にはこれらが世界的に当たり前になっているのかもしれません。将来、身体が男性でも女性でも同じ更衣室を使い、「彼女」や「彼」といった言葉はジェンダーをはっきり分けてしまうため消滅しているようなのであれば、そこで初めて現在スペインで起こっているムーブメントは「進んでいる」と言えるのではないでしょうか。ひょっとしたら100年後にこのブログを読んだ人に、「当時の人はなんて保守的で古臭い考えを持っていたんだ!」「男と女という括りが昔は存在していたのか!」と驚かれてしまうかもしれませんが、それすらも今の段階ではわかり得ないことなのです。
参考:Aprobada la Ley Trans: diez claves para entenderla
Claves de la reforma de la ley del aborto 他
著者プロフィール
- 松尾彩香
2015年スペイン巡礼(カミノデサンティアゴ)フランス人の道を完歩。スペイン語習得のために渡ったコロンビアでコーヒー農家になるもスペイン移住の夢が捨てられず、現在はコロンビアのコーヒー事業を継続しながらマドリードのベッドタウンでひっそりとスペインライフを満喫中。
Twitter: @maon_maon_maon