『窓ぎわのトットちゃん』の楽園で、「徒歩の旅」の先人に出会う
◆NZ縦断走を果たした豚まん屋さん
前々回から歩いてきた安曇野市とお別れして松川村に入ったところで、国道沿いの一軒家に「豚まん工房」の看板が。「豚まん」でさらに「工房」である。ろくに朝食を摂っていなかったことも手伝い、一気にお腹が鳴る。
国道沿いとはいえ、駅からも大型商業施設からも遠い山間地の一角。「こんな場所でやっていけるのかなあ」という思いを胸に、看板やのぼりがなければ一般的な分譲住宅にしか見えないような玄関ドアを開け、店に入る。厨房と直結したカウンターで注文するテイクアウト中心の店だ。変わりネタも色々あり、僕はカマンベールチーズ入りの豚まんを頼んだ。奥のイートインスペースでできたてを頬張っていると、次々と地元のお客さんが入ってきた。家族単位で10個20個と注文していく人が多いようだ。
ここ『まるよし』の豚まんは、コンビニなどで見かける大量生産品の肉まんよりやや小ぶりで、味はさっぱりしている。全国区の有名店の豚まんの中には濃厚で押し出しの強い味のものも多いが、『まるよし』の豚まんは、自然派の優しい味。まとめ買いしていったお母さんが「うちは年寄りがいるんだけど、ここの豚まんは喜んでペロリとたいらげるのよ」と言っていた。聞けば、この先の白馬村で育った地盤産の豚肉(はくばの豚)を使用。こだわりの玉ねぎも新鮮な国産だ。僕は、10年前に東京から長野県の諏訪地方に移住してきたのだが、信州は魚がイマイチなのに対し、県内産の肉と高原野菜は抜群においしいことを知っている。地産地消による鮮度はもちろんだが、気候が厳しい山間地で暮らす人々の誠実で実直なものづくりが、「優しくて安心安全な食」を提供しているのだと信じている。
帰り際に店主の田中良勝さんに話を聞くと、実はものすごいスーパーマンだった(!)。ここに来る前には、白馬でペンションを経営。若い頃からマラソンとトレイルランニングに熱中し、全国屈指のランナーだった。僕が、糸魚川を目指して歩いていることを明かすと、「糸魚川までよく走って往復するよ」とこともなさげに言った。それもそのはず、田中さんは、1987年に、ニュージーランドを1200km縦断走した経験がある筋金入りなのだ。晴海―糸魚川の4倍の距離を走ったというのだから想像を絶する。見せてくれた20年以上前のマラソン雑誌の記事に、確かにその詳細が記録されていた。当時、遠い日本からやってきた青年が前人未到のチャレンジをしていることはニュージーランドじゅうで話題となり、大勢の市民が沿道で応援した。差し入れをしてくれたり、中には伴走を申し出てきたランナーもいたという。ゴールした町では名誉市民の称号ももらったのだと、田中さんはその時の記念写真を見せてくれた。
◆海外生活の喜びと苦労から「本物」を知る
すっかりニュージーランドが気に入った田中さんは、いったん帰国した後、永住権を得て92年に家族で移住。現地で日本料理店を経営しながら大好きな土地を走りまくるという生活を目論んだ。しかし、日本料理店経営の方は法律や商習慣、文化の違いの壁に苛まれ、うまくいかなかった。制約が多い中でなんとかたこ焼きと焼きそばの移動販売を始めたが、生活は楽ではなかった。現地校に通った二人の娘さんたちも、言葉の壁に苦しんだ時期があった。マラソンの方は、地元のランニングクラブに所属し、各地のレースに出場。荷物を背負って1700mの標高差のある山岳コースを一泊二日で走破するハードなレースも完走した。
約6年間ニュージーランドに滞在後、98年に帰国。白馬でペンションを再開する一方で、町おこしと連動する形で地場産の豚まんを開発した。それがヒットし、約40km南の松川村に移転する形で始めたのがこの『まるよし』だ。「ニュージーランドに永住」という夢は破れた形の後半生だが、田中さんはこう語る。「経済的にははっきり失敗でした。それでも、損をしたなんて少しも思っていません。40代の働き盛りに、老後を先取りしたようなぜいたくな日々を味わった、そう解釈すればプラスマイナスゼロ。いや、お金では買えない体験をしたのだからやはりプラスでしょう」(『ランナーズ』1998年8月号より)。
僕は、自分がいわゆる帰国子女だった関係で、さまざまな家族の海外生活を取材してきた。中には、「何もかもが楽しかった」というご家族もいないことはないが、ほとんどのケースは、プラスもあればマイナスもある悲喜こもごもの体験談だ。自分自身、海外で子供時代を過ごした影響で、いまだに日本社会に馴染めていなくて苦労している。反面、広い視野を持つことが第一条件となる今の撮ったり書いたりという仕事ができているのは、海外生活を経験したからだと思っている。田中さんのお話を聞いた感想も同じだ。単なる「夢物語」ではない海外生活をしてきた人生の深みが、「本物」を生み出すのは想像に難くない。田中さんの豚まんが、おいしくないわけがないのだ。
そんな人生の先輩でもある田中さんは、この「徒歩の旅」の大先輩でもある。糸魚川までの道のりを聞くと、やはり、先の章で心配した通り、歩道のない狭小部が多く、特にトンネルは危険だとのこと。知人のサイクラーも事故に遭ったので気をつけるように、そして、国道歩きを回避するには「塩の道」(かつて日本海から信州の内陸部に塩を運んだ旧街道)を利用すると良いよ、とアドバイスをいただいた。「塩の道、塩の道・・・」。この地の街道史を詳しく知らない僕は、そう唱えながら『まるよし』を後にした。
◆「トットちゃん」の世界
松川村でぜひ立ち寄りたかったのが、「安曇野ちひろ公園」だ。日本を代表する絵本画家、いわさきちひろの作品を中心に所蔵する「安曇野ちひろ美術館」の敷地と一体となる形で、戦後最大のベストセラーと言われる黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』の世界が再現されている。単行本の挿絵をちひろが描いたことにより、「トットちゃん」とちひろの児童画の世界観は実際、一体となって繋がっている。黒柳徹子さんの自伝的エッセイである「トットちゃん」の舞台となったのは、東京・自由が丘にあった自由教育の小学校『トモエ学園』で、ちひろ美術館は東京にもあるのだが、この北アルプスのふもとの地でも、その優しい世界観に触れることができる。ちなみに、ちひろ美術館がここ松川村にもあるのは、ちひろ一家が戦時中に松本の母の実家に疎開し、両親は戦後も信州にとどまって開拓農民として松川村に移住したという経緯が関係している。
戦後最大のベストセラーだとはいえ、1981(昭和56)年発行の『窓ぎわのトットちゃん』の内容を、令和の世では知らない人も多いだろう。あらすじをかいつまむと、授業中に窓際の席から身を乗り出し、道ゆくちんどん屋さんを大声で呼ぶような落ち着きのない子供だった「トットちゃん」こと徹子さんが、当初の公立の小学校では手に負えない問題児とされ、1年生で早くも退学になるところから物語は始まる。共に文化人だった両親は、それでもトットちゃんを叱ったり押さえつけることはせず、地元で自由教育を実践する私立の『トモエ学園』に転校させ、それぞれの子供の長所を伸ばす新しいスタイルの教育に活路を見出す。使わなくなった電車の車両を並べて教室にしている学園の自由な雰囲気、そして、自分のとりとめのないおしゃべりを4時間もちゃんと聞いてくれた小林宗作校長の人柄に感動し、トットちゃんは大喜びで新たな一歩を踏み出す・・・。
そんな序盤は、戦前のまだのどかな時代。今はオシャレなショッピング街の自由が丘あたりも農地に囲まれた牧歌的な風情で、トットちゃんたちは、九品仏の池のほとりで農家の人に野菜づくりを教わったり、等々力渓谷で飯盒炊さんをする。学園の仲間は、有名な物理学者になった天才クンもいれば、良家のお嬢様、身体障害を抱えた子もいて、個性豊か。全ての子供の個性と長所を尊重しながら、人として大切な愛や尊厳を傷つけるような行為には生徒であろうと教員であろうと厳しく対処する小林先生。授業の時間割はなく、好きな順番に自習スタイルで各科目に取り組んでいいが、苦手科目も必ずやらなければならないという、「責任が伴う自由」がしっかり実践されていたことにも、目を見張る。そんな学園生活が、徹子さんの楽しい語り口で描かれている。
平成の世になって、トットちゃんのような「例外」を排除する管理教育・偏差値教育が批判され、「ゆとり教育」なるものが登場した。結果、「無知で打たれ弱い」と評される"ゆとり世代"を生んだだけだと、偏差値教育への回帰を叫ぶ世論も一部にある。僕は、「自由」を身を持って体験し、個性を尊重されたことのない前時代の先生たちが、いくら今の子に「ゆとり」を与えても中身のある教育になるわけがない、だから、公教育による自由教育の実践には時間がかかると考えている。そして、その時間はかけるべきだと思う。ただ、今、あらためて『窓ぎわのトットちゃん』を読み返すと、今の日本全体が目指そうとしている教育が、戦前に既に実践されていたことに驚くと共に、日本全体に広がらなかったことをとても残念に思う。
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