吉原は11年に1度、全焼していた...放火した遊女に科された「定番の刑罰」とは?
虐待に耐えかね、3人の遊女が放火を決意
弘化2年の放火について、そのいきさつが『藤岡屋日記』に記されている──。
京町二丁目にある川津屋の楼主の女房のおだいは冷酷な性格で、稼ぎの悪い抱え遊女にしばしば折檻をくわえていた。
遊女の玉菊がたまたま腹具合が悪く、用便に手間取ってしまったため、客が帰ってしまった。これを知って、怒ったおだいは塵払(ちりはら)いの棒で玉菊を打ちのめした。
ついに耐え兼ねて、玉菊は朋輩(ほうばい)の姫菊と米浦に相談した。ふたりとも日ごろからおだいの惨忍な仕打ちを恨んでいたため、
「みなで火をつけよう。そうすれば仮宅になる」
と、川津屋に放火することにした。
決行の日、姫菊は体の調子が悪くて寝ていたため、玉菊は米浦を見張りに立てておいて、火鉢の火種を持ち出し、内風呂の軒下に積んであった炭俵と薪に付け火をした。
たちまち火は燃えひろがり、吉原は全焼した。
最年少の姫菊は15歳まで親元あずけに
火事のあと、実行犯の玉菊と見張り役の米浦は火付盗賊改に召し捕られた。
玉菊と米浦が牢屋敷に収監中、火事が発生して火の手が牢屋敷にせまった。いわゆる「切り放ち」がおこなわれ、囚人はすべて解放される。いったん避難したあと、ふたりは所定の時刻と場所に戻ってきた。
弘化3年4月、火付盗賊改水野采女により、玉菊と米浦は切り放ちのあとちゃんと戻ったことから中追放に減刑された。
いっぽうの姫菊は謀議に参加していたとして遠島に処せられたが、15歳までは親元あずけとなった。
また、女房のおだいはその仕打ちが放火を招いたとして、急度(きっと)叱りとなった。
三人の遊女が火あぶりを免れたことについて、つぎのような落首(らくしゅ)が出た。
火付をも助けるものは水野さま深き御慈悲がありて吉原
人々は、三人の遊女が助命されたのは水野采女の慈悲とたたえたのである。なお、川津屋は悪評が広まり、零落したという。
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