コラム

UAE・イスラエル和平合意は中東に何をもたらすのか?

2020年08月25日(火)17時30分

アメリカでバイデン政権が成立したら、トランプが再開した対イラン経済制裁が再度撤回されるかもしれず、来るべき「アメリカの非協力」に対して強力な「反イラン勢力」とつないでおきたい。米議会が対UAE武器輸出の承認を渋るなら、イスラエルとの友好関係を理由にゴーサインを出させたい。すでに進めつつあるコロナウイルス感染防止に関わる医療、技術、情報の共有を、さらに本格化したい。コロナ後の中東で石油需要や人の移動が激減したとき、石油産業や観光以外に主要産業のない湾岸アラブ諸国は、非石油分野で新たな生存戦略を見つけなければならない。

UAEの対イスラエル和平が「パレスチナ抜き」であることは、一向に不思議ではないのだが、問題は「パレスチナ抜きでけしからん」と言ったところで、どの国もそれを阻止できないことである。当のパレスチナ自治政府ですら、批判を繰り返すしか手がない。イスラエル一強のなかで、どのアラブ諸国もパレスチナ問題でイスラエルに対抗する能力はもちろん、意志もないのが現状だ。

だが、それは今に始まったことではない。30年前にイラクがクウェートを占領したとき、「イスラエルのパレスチナからの撤退とイラクのクウェートからの撤退を一緒に行おう」と提案した、いわゆるリンケージ論がパレスチナ人の歓心を買ったのは、そんな見え透いたこじつけですら希望を与えるという、どの国もパレスチナのために何もしてくれないというフラストレーションの裏返しに他ならなかったからだ。

置いてけぼりのパレスチナ人とそれに同情する人々が、国家に抱く不信感の増大、そしてそれがテロや暴動につながりかねない、という議論は、これまでも長く繰り返されてきた。確かに、ビン・ラーディンが1996年に発出したアメリカ軍に対する宣戦布告では、パレスチナを筆頭にアメリカがムスリムにしてきた数々の悪行を並べて、攻撃理由としている。

二国家案の終焉

だが、テロや暴動よりも、もっと深刻な問題をイスラエルは抱え込むことになる。今回の和平やその根幹となるトランプ政権の「世紀の取引」が土台にしているのは、イスラエル・パレスチナ二国家案の終焉だが、イスラエル支配の浸透するパレスチナでは、すでに実質的に一国家状態を強いられているといっても過言ではない。それを正式に「イスラエルという一国家」にすることは、アラブ系イスラエル人も含めてパレスチナ人を「二級市民」に置く国家を制度化する、ということだ。

米カーネギー財団中東センターのマルワン・ムアッシュルは、その論考で以下のように言う。「問題は、二国家案が実現できるか、できるとすればいつか、ではない。今の現実から、どのような一国家案が生まれてくるかだ。(人種、宗教、出自を問わず国民はすべて平等とする)民主主義システムか、それともアパルトヘイトか」。

パレスチナという民族自決の権利がないがしろにされ続けていることは、すでに喫緊の問題ではなくなっているのかもしれない。だが、一つの国に住む、普通の人間としての平等な権利をどう獲得するかという、より深刻な問題が眼前にある。

<参考記事:撃墜されたウクライナ機、被弾後も操縦士は「19秒間」生きていた
<参考記事:「歴史的」国交正常化の波に乗れないサウジの事情

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏とゼレンスキー氏が「非常に生産的な」協議

ワールド

ローマ教皇の葬儀、20万人が最後の別れ トランプ氏

ビジネス

豊田織機が非上場化を検討、トヨタやグループ企業が出

ビジネス

日産、武漢工場の生産25年度中にも終了 中国事業の
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story