コラム

紛争と感染症の切っても切れない関係──古くて新しい中東の疫病問題

2020年03月26日(木)17時45分

サウジアラビアは3月4日にメッカへの巡礼を禁止した(写真はその前日3日のメッカの巡礼の様子) Ganoo Essa-REUTERS

<新型コロナウイルスの感染が広がる今こそ、国際的な協調が求められる時だが、中東では歴史的に国際政治と感染症が密接に関係してきた>

新型コロナウイルスの感染拡大が、世界中を恐怖に陥れている。今やパンデミックの中心は欧米諸国に移った感があるが、東アジアでの発生から欧米へと移行する過程で、中東でも感染拡大が止まらない。

中東で最初に感染者が出たのは2月14日、エジプトにおいてである。これはエジプトを訪問した中国人から感染が広がったものだった(3月19日現在の感染者数210人、死者4人以上)。3月に入ると、ナイル・クルーズで観光客の間に拡大した感染が日本にも広がった。アジア発の感染という点では、イスラエルでの例がはっきりしている。2月21日に「ダイヤモンド・プリンセス」号乗船のイスラエル人11人が横浜から帰国したことで、感染が広まった(現在感染者427人)。

しかし中東で最も爆発的な拡大が起きたのは、イランである。2月19日に発症が確認されて以降、3月19日までに感染者数は1万7361人、死者は1135人で、中東のなかでは最も多い。イランを追うようにして、2月22日にはレバノン(感染者133人、死者3人以上)、24日にはバハレーン(感染者255人、死者1人)、イラク(感染者154人、死者11人)、26日にはクウェート(感染者142人)、29日にはカタール(感染者452人)と、周辺国へ拡大した。いずれもイランからの訪問者ないし帰国者から伝染したもので、シーア派信徒の巡礼や留学のネットワークが、感染ルートとしてはっきりと浮き彫りになった。

3月2日にはバハレーン経由でイランからサウディアラビアに帰国したサウディ人が陽性とわかり、イスラーム最大の聖地メッカとメディーナを抱えるサウディに激震が走った(現在感染者238人)。18億人以上と言われる世界中のイスラーム教徒が、巡礼する聖地である。ここで感染が広がったら、たいへんなことになる。サウディ政府は3月4日にメッカへの巡礼を禁止した。誰もいないカアバ神殿の大理石の床の写真がSNSで出回ったが、いつもは巡礼客で満杯な姿しか見たことがないので、床がこんなに白かったのか、と驚くレスが相次いだ。大々的な消毒作業が行われ、その後実施された金曜礼拝も、無観客のなかで礼拝導師の朗々と響く声がユーチューブで出回った。

宗教を取るか防疫を取るか

モスクや集団礼拝がクラスターになる、というのは容易に想像つくことだが、その対応は国によって分かれている。イランの聖地コムでは、宗教行為をとるか防疫を重んじるかで議論が続き、聖廟の閉鎖が決定されるまでには数週間を要したが、同じシーア派イスラーム政党が主導するイラクでは、ナジャフでイラン人留学生の感染が発覚すると翌日には同市のイマーム・アリー廟を閉鎖、3月9日には市全体の封鎖を決定した。同じシーア派だから国境を越えた行き来には目をつぶるかと思ったら、イラクはイランで感染者が出るや2月20日にはイランとの国境を閉じ、人の行き来をシャットアウトした。宗派上の連帯より国家としての水際対策のほうが大事、というわけだ。その他の湾岸諸国でも、モスクの扉は閉ざされ、「礼拝は自宅で」と促された。

人の行き来を止めることで最も影響が甚大なのが、UAE(アラブ首長国連邦)とカタールである。UAEのドバイとアブダビ、およびカタールのドーハはいずれも世界有数のハブ空港を抱えているが、いずれも発着の航空便を大幅に縮小している。現在までにドバイは中東のほとんどの国やローマ以外のイタリア、北京以外の中国との行き来を停止しているし、カタールでもトランジット以外の外国人の入国禁止、国民の外出禁止措置が取られた。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

南ア、イスラエルのラファ攻撃停止求める ICJ審理

ビジネス

インフレ率、FRBが望む水準に達せず=米リッチモン

ビジネス

米一戸建て住宅着工件数、4月0.4%減 住宅ローン

ワールド

ゼレンスキー氏、ハリコフ州視察 「極めて困難だが制
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 2

    羽田空港衝突事故で「日航の奇跡」を可能にした、奇跡とは程遠い偉業

  • 3

    アメリカはどうでもよい...弾薬の供与停止も「進撃のイスラエル」は止まらない

  • 4

    老化した脳、わずか半年の有酸素運動で若返る=「脳…

  • 5

    半分しか当たらない北朝鮮ミサイル、ロシアに供与と…

  • 6

    総額100万円ほどの負担増...国民年金の納付「5年延長…

  • 7

    2023年の北半球、過去2000年で最も暑い夏──温暖化が…

  • 8

    共同親権法制を実施するうえでの2つの留意点

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    仰向けで微動だにせず...食事にありつきたい「演技派…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 7

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 8

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    「終わりよければ全てよし」...日本の「締めくくりの…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story