イラン司令官殺害が象徴する、イラク・シーア派への米政府の「手のひら返し」
イラクの反政府デモの怒りはイランだけでなくアメリカにも向けられ始めた Essam Al Sudani-REUTERS
<歴代の米政権が黙認してきたイラクの親イラン化に、トランプ政権がようやく目を向けた途端、自己正当化のための攻撃を開始した>
1月3日、イラン・イスラーム革命防衛隊クドゥス部隊のカーセム・ソライマーニ司令官と、イラク人民動員機構(PMU)のジャマール・ジャアファル・ムハンマド(通称アブー・マフディ・ムハンデス)副司令官が、バグダード国際空港にて米軍の攻撃によって殺害された。イランでもイラクでも、瞬く間に彼らの死を悼み米軍への報復を叫ぶ人々が、道という道に溢れた。ソライマーニやムハンデスに弔意を示さないものは非国民だ、的なムードすら漂っている。8日にはイランがイラク国内の米軍基地を報復攻撃した、と発表した。
アメリカがなぜ今この時期にイランの司令官を攻撃したのか、理由は正直不明だ。イラクで反イラン色の強い反政府デモが続いていたことで、イランを叩くチャンスだと考えたのかもしれない(ポンペオ国務長官は攻撃後のツイッターで、「ほら、イラク人たちが踊って喜んでいる」と呟いている)。だが、イラン、イラク(そしてレバノン)で広がる支持者の激しい怒りが、それぞれの国でむしろ反米意識の高揚につながり、報復攻撃の激化を呼ぶ危険性が高まっている。
その不安感の根底にあるのは、トランプ政権に今後の策があるのか、落としどころなど考えていないのではないか、という懸念だ。無策のまま無謀な行為に出て、泥沼に入り込むのではないか。
なによりも不安を掻き立てるのが、ソライマーニとムハンデスの殺害が、イラク戦争以降のアメリカの対イラク政策をすべてひっくり返す出来事だということだ。そもそも対「イスラーム国」(IS)掃討作戦で最も手柄を挙げたのは、ソライマーニ率いるクドゥス部隊であり、ムハンデス率いるPMUだった。実質的にアメリカの対IS作戦を側面支援していたのが、彼らである。
この手のひら返しは、イラク戦争後の暗黙のゲームルールが崩壊したことを示している。いや、手のひらを反す程度の話ではない。歴代の米政権がイラクでの失策を認めたくないがために、過去16年間のイラクでの親イラン化に目をつぶってきたのに、その事実にようやく目を向けた途端、あたかも目をつぶるようなことなどしてこなかったかのように、自己正当化している。
たとえば、この発言だ。ソライマーニ殺害後、米国務省は「ソライマーニはイラク戦争以来米国人の命を数百も奪ってきた」と発表した。イラク駐留の米軍の間で多くの死者がでたのは、内戦期の2006~07年である。この時期まで米政府は、「反米活動はもっぱらアルカーイダとそれを支持するスンナ派住民」とみなしていて、イラク政府によるスンナ派地域への掃討作戦を全面的にバックアップしていた。戦後イラクで最も米兵の死者が多かったのは、激戦地となったファッルージャのあるアンバール県で、駐イラク兵死者4604人のうち、3割弱が同県で亡くなっている。全体の半分以上がスンナ派住民の多い4県で命を失い、シーア派の多い南部9件で亡くなった米兵は全体のわずか15%に過ぎない。アメリカは、「シーア派は安全だ」と思ってきた――あるいは、思い込もうとした。
そのアメリカがようやく「シーア派の一部も反米かも」と認めたのは、上記の内戦期である。2006年12月、ベイカー元国務大臣とハミルトン上院議員らが超党派でまとめた「イラク・スタディ・レポート」は、イラクで反米活動を行っているのがスンナ派ばかりでなく「シーア派の民兵」もいることを、初めて認めた。
その時米政府の念頭にあったのは、シーア派のなかでも戦争直後から露骨に反米活動を展開していたサドル潮流の民兵、マフディ軍だった。イラク・ナショナリストのサドル潮流は親イランのシーア派勢力とも対立していたので、イラク政府は2008年、マフディ軍を鎮圧する際に親イラン派民兵のバドル部隊を起用、マフディ軍を解体させるに至った。この時バドル部隊とサドル潮流の仲介に尽力したのがソライマーニだったともいわれており、彼と親イラン派のシーア派民兵は、米軍と米軍が支えるイラク政府が内戦から抜け出すのに大いに貢献したのである。
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