パレスチナ映画『歌声にのった少年』の監督が抱える闇
で、そのモヤモヤ感が腑におちたのが、登場人物のなかの「密告を誘うイスラエル側のエージェント」の位置づけがわかったときである。ネタバレになるのであまり詳しく言えないのだが、主人公はイスラエルのエージェントに徐々にではあるが心を開きながら、最後は銃を撃つ。その転換点となるシーンがあって、それはそれまで主人公と流暢なアラビア語で会話していたイスラエルのエージェントが、家族とヘブライ語で話す場面なのだ。
そうか、主人公はエージェントのことを、自分たちと同じアラブ人=パレスチナ人だと思っていたのか。イスラエル人のエージェントとはいえ、同じパレスチナ人ならイスラエル国籍を持っていても自分たちにそれなりの共感と同情を持ってくれるのでは、という深層心理が、主人公を「密告」に走らせたのか。それがヘブライ語を話す生粋のイスラエル人だとわかったことで、主人公は絶望したのだろうか。
【参考記事】『オマールの壁』主演アダム・バクリに聞く
ここに、アブ・アサド監督の深い闇を見た。自分自身、イスラエル国籍を持ちながら、イスラエル国内外のパレスチナ人に深く寄り添う。だが、「イスラエル人」として、占領下のパレスチナ人とは明確に隔絶されている。それどころか、占領下パレスチナとイスラエルの間のマージナルな人間として、裏切りや疑心が常に付きまとう存在だ。自分の存在は、ほのかに占領地パレスチナ人に手を差し伸べるかもしれないけれど、結局は「ヘブライ語を話したエージェント」のように、占領地のパレスチナ人を見捨てるものとみなされてしまうかもしれない。生涯ディアスポラで終わったパレスチナ人学者のエドワード・サイードは、死の淵で夫人に、「自分はパレスチナのためにまだ十分できていない」と言い残したと言われている。苦境に喘ぐ同胞に心を寄せながらも、完全に同一視してはもらえない、辺境に置かれた人々。
移民や難民の抱える辛さは、経済面でも社会面でも政治面でも衛生面でも、ありとあらゆる側面で計り知れないものがあるが、その根幹にあるしんどさは、マージナルなところに立たされることから来るのではないか。民族的な出自と今住む社会、それから国籍――。自分が属する複数の集団の、どれに一番「忠誠」を持つのかが、常に周りから問われる。問われるだけではない。疑われる。難民もそうだし、二重国籍者もそうだ。
日本で難民映画祭が開催されるようになって、今年で11年目。仙台ではすでに始まっていて、この週末から札幌、東京、大阪と続く。ここで上映される映画の主人公たちにもまた、歌声にのって世界に羽ばたいていける未来があってしかるべきだ。
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