コラム

パレスチナ映画『歌声にのった少年』の監督が抱える闇

2016年09月23日(金)18時20分

 そういう経緯を経て2000年代、ハニ・アブ・アサド監督の登場になるわけだが、彼の面白いところは、けっこうエンタメ路線を踏まえているところだ。英BBCやチャンネル4で番組制作に関わっていたことも、影響しているかもしれない。2005年に制作された『パラダイス・ナウ』は、ゴールデン・グローブ賞を取り、アカデミー賞外国語映画部門にもノミネートされたが、受賞反対運動が起きた。自爆作戦に赴くパレスチナ人青年の、イスラエル占領下での生活と葛藤を描いていたからである。

 次々に国際的な評価を高めていったアブ・アサド監督が行きついた作品が、今公開中の『歌声にのった少年』だ。本作品でテーマとなったガザ出身のパレスチナ人、ムハンマド・アッサーフのサクセスストーリーは、あらためて説明するまでもない。占領下のパレスチナで国外に出るのがいかに難しいかは、このコラムで何回か紹介した『自由と壁とヒップホップ』などのパレスチナ映画でも、繰り返し描かれてきた。アブ・アサドの新作は、その障害をいかに乗り越えて、オーディション歌番組で優勝したかを、愛と感動で描く。暗い暗いイメージのはずのパレスチナ映画が、夢と希望を与えてくれる、涙なくして見られない映画だ。

 さて、今回、アブ・アサドについて筆者が語りたいのは、この最新作のことではない。そのひとつ前、日本でも今年四月に公開された『オマールの壁』(2013年)である。サスペンス調の『パラダイス・ナウ』や愛と感動の『歌声にのった少年』に比べると、重い。背景となる社会状況がわかりにくいとか複雑だとかはあるのだが、出口のなさが前者二作に比べて半端ではない。『パラダイス・ナウ』がわかりやすかったわけではないけれども、「占領がひどい、パレスチナ人社会は苦しんでいる、イスラエルはケシカラン」的な短絡的な構造認識が一切、消えている。

【参考記事】映画『オマールの壁』が映すもの(1)パレスチナのラブストーリーは日本人の物語でもある

 この重苦しさは何なのだろう、とモヤモヤしたまま映画館を出たのだが、数日してから気が付いた。「イスラエルの占領×、抑圧されているパレスチナ人○」では片づけられない、まさにその最大の対象が、アブ・アサド監督自身だからである。イスラエル国籍を持つパレスチナ・アラブ人として、被占領下のパレスチナ人の立場を完全に共有することもできず、ましてやイスラエル側には加担できない。かといって、祖国を離れてヨーロッパで、客観的な目でパレスチナを眺めるディアスポラの立場にも、満足できない。

『オマールの壁』の主人公は、『パラダイス・ナウ』と同じく、イスラエル占領下のパレスチナ人の青年たちだが、主題はパレスチナ人の間の疑心暗鬼に置かれている。『パラダイス・ナウ』の底流にも流れていたように、パレスチナ人内部からイスラエルへの「密告」が、ここではより中心的なテーマとして描かれる。だが、密告者に成り下がる側にもそれなりの理由があって責められないよね......的な話でもない。むろん、パレスチナ人社会の「密告」性質を暴く、的な告発モノでもない。結果として、じゃあどうすりゃいいのよ、といった煩悶を見る者に残して、モヤモヤ感満載で映画館を後にすることになる。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

豊田織機の非公開化報道、トヨタ「一部出資含め様々な

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米

ワールド

アングル:バングラ繊維産業、国内リサイクル能力向上
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 7
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 8
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 9
    ビザ取消1300人超──アメリカで留学生の「粛清」進む
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story