コラム

ラシュディ襲撃事件に見る、行き過ぎた異文化尊重の危うさ

2022年08月24日(水)15時15分

文壇の仲間であるイギリスの有名作家たちがこの問題に対して見せる態度の曖昧さは信じ難いほどだった。ジャーメイン・グリーアは「そんな本に割く時間はない」と話し、ジョン・ル・カレは何者であれ偉大な宗教を冒涜することは許されないと言った。つまり、表現の自由は最もそれを重んじるべき人たちから擁護されなかったのだ。一般社会がそんな考えに染まったのも無理はない。

全ての文化は平等で、たとえそれがわれわれの法を犯すものであっても、自分たちの価値観のほうが勝っていると主張するのは誤りだ、という「進歩的」な考えも登場した。こうしたことが積もり積もって、結局は暴力の脅しに道徳や理性が屈することになってしまった。

ラシュディが大した犠牲も払わずに長年安全でいられたのは、イギリス政府の対策の成果だ。建前上、僕たちの価値観は傷ついていない。だがその裏では、イギリスメディアの自己検閲に見られるように、クレームに対して萎縮する姿勢が蔓延している。

例えば2006年にデンマークで預言者ムハンマドの風刺画騒動が起こったとき、イギリスの新聞は表現の自由を声高に叫びながらもその風刺画を掲載したところは皆無だった。各紙は状況を「炎上」させず「気配り」を見せたと自画自賛したが、同時に風刺画が侮辱的なのかそうでないのか読者が自ら判断する権利を奪った。結果として信頼性は崩れ、多くのイギリス人は今や、英メディアの「策略」なのではないかと疑っている。

無差別刺傷事件が発生したとき、容疑者が若いイスラム系移民であることはどう見ても明らかな場合でも、メディアがそのことにはほとんど触れずにやたらと容疑者の「精神障害の病歴」を強調することにも、人々は疑念を抱いている。

人種的マイノリティーや同性愛者、トランスジェンダー、そしてより広い社会における女性の権利などを声高に主張するリベラルメディアは、例えば「名誉殺人」や強制結婚といった、マイノリティー集団内部に根強く残る差別について報道して暴露することにはかなり及び腰だ。これらを糾弾するのは往々にして、メディアよりはるかに立場の弱い個人である集団内部の活動家たちにお任せ、となっている。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、広範な関税措置を「撤回しない」=商務長

ビジネス

米ISM非製造業総合指数、3月50.8に低下 9カ

ビジネス

ECB、米関税による経済や物価影響を議論 3月理事

ビジネス

ステランティス、米工場で900人一時解雇へ 関税発
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「最後の1杯」は何時までならOKか?...コーヒーと睡眠の「正しい関係」【最新研究】
  • 2
    アメリカで「最古の銃」発見...いったい誰が何のために持ち込んだ?
  • 3
    【クイズ】日本の輸出品で2番目に多いものは何?
  • 4
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 5
    得意げに発表した相互関税はトランプのオウンゴール…
  • 6
    「ネイティブ並み」は目指す必要なし? グローバル…
  • 7
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 8
    あまりにも似てる...『インディ・ジョーンズ』の舞台…
  • 9
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2…
  • 10
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 5
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 6
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2…
  • 7
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 8
    あまりにも似てる...『インディ・ジョーンズ』の舞台…
  • 9
    突然の痛風、原因は「贅沢」とは無縁の生活だった...…
  • 10
    なぜ「猛毒の魚」を大量に...アメリカ先住民がトゲの…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 3
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 4
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 5
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 6
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 7
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 8
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアで…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story