コラム

AI鑑定はアート界の救世主か? ルーベンス作品の真贋論争から考える

2021年10月26日(火)11時45分

今回、AI鑑定をしたのは、スイスのArt Recognitionという会社です。絵画のAI分析システムを開発しており、オランダのティルブルフ(Tilburg)大学との共同研究ですでに400作品の分析をしています。

AIによる分析では、すでにルーベンス作と評価の定まっている148作品をスキャンして筆致の特徴を捉え、問題の「サムソンとデリラ」と比較しました。結果は、「91.78%の確率で本物ではない」でした。対照として、ナショナル・ギャラリー所蔵で真贋の論争がないルーベンス作品「早朝のステーン城の風景」もAI分析したところ、こちらは「98.76%の確率で本物」という結果でした。

ルーベンスのみが描いた作品は少ない

AIの贋作判定について、ナショナル・ギャラリーは「現在はコメントできない」と答えています。もっとも、この発言は、偽物と認めたくなくて逃げているわけではないようです。

ルーベンスは生涯に2000作を残した多作の画家で、工房を作って弟子や助手たちと共同制作をしていました。弟子が最初から最後まで描いていれば「偽物」ですが、本物のルーベンス作品であっても、ルーベンスのみが描いた作品は少ないのです。ただし、本人の手がどれだけ入っているのか、ルーベンスが下絵や仕上げをしたのかによって、絵の価値は大きく変わります。たとえ偽物ではなくてもナショナル・ギャラリーの「サムソンとデリラ」に10億円の価値はない、という可能性は十分にあります。

さらに、ルーベンスの「サムソンとデリラ」には、下書きが2つ存在します。一つは米シンシナティ美術館に所蔵されている、木版に油彩で行われたスケッチです。もう一つは、ずっと個人に保管されていて、2014年のオークションで表に出てきた木炭と水彩で描かれたものです。実は、どちらの下書きもナショナル・ギャラリー所蔵と同じく、サムソンの右足のつま先は描かれていません。

akane211026_4.jpg

木版に油彩で行われた「サムソンとデリラ」のスケッチ(米シンシナティ美術館に所蔵) PUBLIC DOMAIN

akane211026_6.jpg

木炭と水彩で描かれたスケッチ PUBLIC DOMAIN

ではなぜ、つま先があるバージョンがあるのでしょうか。

先に紹介したヤーコプ・マータムが版画にした「サムソンとデリラ」は、米シンシナティ美術館所蔵のスケッチを下絵にしていると考えられています。もしかしたら、銅版画にする時にヤーコプ・マータムが全体のバランスを考えて、サムソンにつま先を加えたのかもしれません。その後、フランス・フランケン二世は、マサフの銅版画を参考にして、自分の絵の中の「サムソンとデリラ」を描いたのかもしれません。なので、「つま先がないから贋作」という指摘は当を得ていない可能性があります。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト/博士(理学)・獣医師。東京生まれ。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第 24 回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:もう賄賂は払わない、アサド政権崩壊で夢と

ワールド

アングル:政治的権利に目覚めるアフリカの若者、デジ

ワールド

尹大統領の逮捕状発付、韓国地裁 本格捜査へ

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 4
    感染症に強い食事法とは?...食物繊維と腸の関係が明…
  • 5
    女性クリエイター「1日に100人と寝る」チャレンジが…
  • 6
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 7
    フランス、ドイツ、韓国、イギリス......世界の政治…
  • 8
    失礼すぎる!「1人ディズニー」を楽しむ男性に、女性…
  • 9
    オレンジの閃光が夜空一面を照らす瞬間...ロシア西部…
  • 10
    本当に残念...『イカゲーム』シーズン2に「出てこな…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 5
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 8
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 7
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 10
    「腹の底から笑った!」ママの「アダルト」なクリス…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story