南米街角クラブ
ブラジルの中で生きた愛国心、時と共に明らかになる日本移民史
先日、6回目のビザ更新が完了し正直ホッとしている。
1973年以降、ブラジルは日本人移民を受け入れていないので、ビザ更新は必ずしなければならない。
パンデミックの影響で手続きを承る連邦警察が一時閉鎖されメール対応になり、今回の更新はいつも以上に困難だった。自分の都合でブラジルに住んでいるわけだが、海外で暮らしてことがある方なら、ビザ更新が胃が痛くなるようなイベントだということをおわかりいただけるだろう。
ブラジルはアルゼンチンやパラグアイなど南米南部共同市場(通称メルコスル)に加盟している国の国籍者は居住許可が比較的取りやすい事や、難民の受け入れで連邦警察の外国人窓口は終始混雑している。言葉が通じずに言い争う人たちを何度も見た。
ビザ更新で学んだことは、住んでいる国の言語を覚えることの重要さと、冷静になるということであろう。
|ブラジルの中の小さな日本
海外に住んでいると、日本語ロス、日本食ロスになることはもちろん、これまで全く気に留めなかった和柄や和服、日本文化に目がいくようになる事がある。
私が単身ブラジルに来て7年間全くホームシックにならなくて済んだのは、実はリベルダーデやその界隈の人々のおかげだと思う。
今では中国、韓国、台湾系の店が多く並ぶリベルダーデだが、美味しいラーメンや定食が食べられるし、日系スーパーに入れば日本食材も購入できる。サンパウロ進出しているすき家には何度お世話になったか数え切れない。
日本語が通じるお店が多い事もポルトガル語がわからない頃の私に安心感を与えてくれた。
そういった理由で最初の滞在先をリベルダーデにしたのは大正解で、サンパウロに降り立って数日後には現地在住の日本人の方々に出会い、今でも本当に良くしてもらっている。
自分でもびっくりすることに、演歌のバンドにも参加するようになった。
日系ブラジル人のカラオケのレベルを侮ってはいけない。歌うのは二世もしくは三世が中心で、中には日本語がわからない人もいるが、そのパフォーマンス力と熱心さには本当に圧倒される。
そして、流れ続ける昭和歌謡を聴いていると、まるでブラジルの中に小さな日本があるようにさえ思えてくる。
|奴隷、移民、コーヒーの港街
ブラジルにおける日本人移民の歴史は1908年に始まった。
最初の移民となる人々を乗せた笠戸丸は、6月18日サンパウロ州の港町サントスに辿り着く。世界的にはコーヒー豆の輸出港として有名だが、船で連れてこられた奴隷が逃亡して作ったキロンボと呼ばれる集落や、日本やヨーロッパからの移民船が到着する場所として歴史的に非常に重要な場所だ。
日本移民90周年記念時にはサントス日本移民上陸記念碑が設立された。ここは邦人向けの観光スポットとして紹介されているが、残念ながら私は訪れた事がない。
サントス日本移民上陸記念碑(photo by Prefeitura de Santos)
1973年に最後の移民船が到着した後も、私のようになんらかの縁でブラジルで暮らす日本人や駐在員は沢山存在する。
職業、生まれも年齢もバラバラな邦人が引き寄せられるように集まるのは、リベルダーデにあるアートプロデューサーの裕司さんの家だ。
私が松林要樹監督に出会ったのもここだった。当時監督は文化庁新進芸術家海外研修制度にてサンパウロ滞在中で、帰国後、沖縄とブラジルの間に埋もれていた日本移民史のタブーを描いた『オキナワサントス』を発表された。
あの移民上陸記念碑が建てられたサントスで起こった日本人移民への強制退去命令の話は、実はブラジルでも大きく取り上げられていない。
実際に私も7年間リベルダーデに出入りし、数多くの日本人や日系人にお世話になっておきながら、一度もきいたことがなかった。
日本人移民史には、まだまだ明らかになっていない事実が存在する。
著者プロフィール
- 島田愛加
音楽家。ボサノヴァに心奪われ2014年よりサンパウロ州在住。同州立タトゥイ音楽院ブラジル音楽/Jazz科卒業。在学中に出会った南米各国からの留学生の影響で、今ではすっかり南米の虜に。ブラジルを中心に街角で起こっている出来事をありのままにお伝えします。2020年1月から11月までプロジェクトのためペルー共和国の首都リマに滞在。
Webサイト:https://lit.link/aikashimada
Twitter: @aika_shimada