玉城デニー知事に聞く、沖縄の現在と未来──「オール沖縄の民意はいささかも変わらず」
OKINAWA AT A CROSSROARDS
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玉城は5月7日、基地負担軽減などを求めた「新たな建議書」を発表した 毎日新聞社/AFLO
<公約の実現度、支持母体と政治的立場、観光産業の「量から質」への転換──沖縄タイムス紙で基地問題などを長年取材したジャーナリスト・渡辺豪が玉城知事に聞いた>
4年前の沖縄県知事選。「誰一人取り残さない」というキャッチコピーが、これほどしっくりくる候補者はいない、と筆者は感じた。沖縄駐留の米海兵隊員だった父親の顔を知らずに育ち、貧困やいじめも経験した。そんな「戦後沖縄」を体現する玉城デニーは、沖縄の多様性のシンボル的存在でもある。
だが、この4年間は修羅場の連続だった。沖縄県の舵取り役として、デニー色を発揮できた自負はあるのだろうか。この質問に、玉城は「291項目の公約の全てを手掛けることができています」と胸を張った。
虐待などから子供を守る県条例の制定や、性の多様性を尊重する宣言の発表、通院時の医療費無料化の対象年齢を中学卒業時まで拡充したことなどを挙げつつ、しかしこんな本音も吐露した。
「災害級の対応さえなかったら、という思いは拭えませんね」2019年に首里城が焼失。20年には県内で34年ぶりとなる豚熱が発生。それ以降は新型コロナウイルスの感染拡大、海底火山噴火による軽石漂着まで、これでもかと押し寄せる危機管理の対応に追われた。
一方で積年の課題はどうか。沖縄県は復帰50年に合わせ、「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」を作成し、5月に日米両政府や国会に提出した。ベースとなった理念は、復帰を控えた1971年に策定された「復帰措置に関する建議書」だ(当時の琉球政府の屋良朝苗主席の下でまとめられ、「屋良建議書」とも言われる)。玉城はこう強調する。
「復帰後の歴代知事は8人で、屋良建議書を否定した人はいません。今も生き続けているのです」
屋良建議書で提示した、自立型経済の構築と「基地のない平和の島」という宿願への道筋は今なお見通せないのが現実だ。沖縄は復帰前には米軍基地建設などから派生する「基地経済」、復帰後は公共事業などに依存するいびつな経済構造から抜け出せていない。全国最下位の県民所得の向上のためにも、民間主導の自立型経済の確立は不可欠だ。沖縄への過度な基地集中は、その最大の阻害要因でもある。
「今回の建議書でも米軍基地のさらなる整理縮小や、普天間飛行場の速やかな運用停止を含む一日も早い危険性除去、辺野古新基地建設の断念など構造的、差別的とも言われている基地問題の早期解決を求めている。これらは、今あらためて建議せざるを得ない県民の悲願です」
「有事ありきでなく冷静に」
玉城は昨年5月、在日米軍専用施設に沖縄の占める割合を現在の約70%から「50%以下」に削減するよう要請。普天間移設問題の解決に向けては、日米両政府に沖縄も加えた三者協議の場の設置を提案している。だが、政府は一顧だにしない。
歴代知事も基地問題への対応に心身を削った。98年に「辺野古容認」を掲げて知事に当選後、「使用期限を15年とする」などの条件を政府にほごにされた稲嶺恵一元知事は、在任中は基地問題が頭から離れず、毎晩酔いつぶれるまで泡盛を飲んだことを退任後に明かしている。