元米兵捕虜が教えてくれた、謝罪と許しの意味
SEEKING A SENSE OF CLOSURE
1つの歴史を日米双方の視点から追い掛けてきたことをかいつまんで話し、アメリカへの屈折した思いまで吐露していた私は、気付くとそんな問いを口にしていた。するとスタークは、ほとんど間を置かずにこう応じた。「その言葉はとても、心に響くよ」。そして、瞳を潤ませた。
戦争をまったく知らない世代の私の言葉が、祖父と何の面識もないスタークの心に響いている。心が通じたという大きなうれしさはあったが、自分の言葉がなぜ意味を成すのかが分からなかった。だがその後に続くスタークの言葉で、私は彼の心の動きを身をもって知ることになる。
自分の話を切り上げ、取材する側に戻ろうとする私を、スタークは「いや、聞きなさい」と制した。「心の内を話してくれて、ありがとう。私も同じような経験を何度もしてきたよ。私はあなたのおじいさんを知らないし、彼が追及されたようなことをやったのかどうかは分からない」。そして彼は目に涙をためながら、私がまったく想定していなかった言葉、だが心のどこかでずっと聞きたかった言葉を発した。
「もしやっていたとしても私は彼を許すし、もしやっていなかったとしたら、間違いが起きてしまったことを謝りたい」。そこで彼は1度言葉を止め、こう続けた。「だが私が最も申し訳なく思うのは、君がこんなに傷ついていることだ。戦争は地獄だ。単なる地獄、それ以外の何物でもない」
パンドラの箱を開けて
地獄の記憶に完全に幕を下ろせる日は、それが生々しく語り継がれている限り、おそらくやっては来ないのだろう。その一方で、戦争を体験した世代は戦後の人生でいくつもの「終止符」を打ってきた、いや打とうとしてきたのかもしれない。そうしなければ、生きていけなかったからだ。
スタークは、日本を訪れたことが1つの終止符であり、私と会話したことも「大きな終止符」になると言った。戦後、軽犯罪の受刑者ばかりを収容する郡立刑務所に勤めたことが大きな幸いだったとも語った。自分と同じようにPTSDで苦しむ帰還兵の囚人と対話することで、自分自身も救われたという。そうやって少しずつ人生を前に進めてきたのだろう。
祖父もまた、終止符を求めていたに違いない。巣鴨プリズンで今度は自分が米軍の管理下に置かれ、敵の支配下で生きるしかなかった捕虜たちの苦しみを理解したという。一方で彼は、連合軍だけでなく戦後の日本社会からも「戦犯の烙印」を押されたと感じ、苦悩していた。そんな祖父にとってオランダ人の元捕虜からの手紙はこの上なくありがたい終止符だっただろうし、「地獄の苦しみだった」という手記の執筆は、自分の手で終止符を打つ作業そのものだったと思う。