元米兵捕虜が教えてくれた、謝罪と許しの意味
SEEKING A SENSE OF CLOSURE
だがスターク親子はそれを知らない。その後の数分間は、これまで何度も見てきた光景と同じだった。祖父の話を切り出された相手は一様に、表情をこわばらせたまま固まる。驚いた様子のスタークの娘は、耳が悪くて聞き取れなかった父親にエスリンガーの言葉を繰り返す。すると、今度はスタークが目を大きく見開いてこちらを見た。エスリンガーがすかさず「父は、彼女のおじいさんは良い所長だったと言っている」と言うと、父娘の表情はいくらか和らいだ。そしてスタークは「君には、すべてを話す。私が知っているすべてを話す」と、怖い顔をして立ち上がった。私は自分の心も、みるみるうちに固まっていくのを感じていた。
元捕虜が語る70年の物語
スタークが米陸軍に入隊したのは41年3月、18歳のとき。1カ月後にはフィリピンに送られ、日本軍との戦闘を経て42年4月9日にバターン半島で捕虜になった。彼は「バターン死の行進」を歩いていない。当時マラリアで入院していたため、トラックでマニラ近郊のビリビッド収容所に移送されたのだ。移送中に「行進」のルートを通った際には、日本人に目を向けただけで銃剣で殺されかけたという。
ビリビッドの次に送られたのは、マニラの約120キロ北に位置するカバナツアン収容所。収容所正門のポールには切断された人の頭部がぶら下げられており、「逃亡を企てれば同じ目に遭う」という注意書きがあった。捕虜は10人で1つのグループを組まされ、1人が逃げれば残りの9人が処刑されるというルールが告げられた。そこでは、飢えや病気で毎日平均30人の捕虜が死んでいった。
その後、ミンダナオ島のダバオ収容所に移されたスタークは、44年に地獄船で日本に送られた。62日間かけて命からがら福岡県北九州市の門司港に着くと、三重県四日市市の捕虜収容所に送られ、紀州鉱山の鉱石を製錬する石原産業四日市工場で働かされた。
四日市での生活は、フィリピン時代に比べればずっとましだった。休日はほとんどなく、毎日12時間働かされたが、「思いやりのある」日本人もいた。ある日、骨のように痩せ細っていたスタークは工場で働く日本人の弁当を盗んで食べてしまった。だが、その日本人はひとことも問い詰めないばかりか、翌日から弁当を2つ持ってきて、1つをスタークに手渡した。弁当の差し入れは、45年5月にスタークが富山市の収容所に移されるまで毎日続いた。スタークが富山で終戦を迎えたとき、体重は44キロにまで落ちていた。