文革に翻弄された私の少年時代
母の肖敏蓉(シャオミンロン)は父より5歳年上だった。長沙の紡績工場を経営する資本家の娘として生まれたが、実は正妻の子ではなく、私の祖父にあたる資本家がお手伝いさんに産ませた子供だった。それでも、母は大事に育てられた。まだ中国が貧しく混乱した国民党の時代に、女性でありながら内陸の中心都市、重慶(じゅうけい)市の師範学校に2年間通ったというのだから、そのお嬢さまぶりがわかるというものだ。私が小さい頃、家には立派な家具がたくさんあったが、それらはどれも母が実家から持ってきたものだった。
当時、長沙は日本と戦争をしていた国民党が支配しており、適齢期を迎えた母は、支配者だった国民党員の小学校校長と結婚した。金持ちの娘と支配層エリートという当時の理想のカップルだが、この結婚がのちに母の人生、そして、われわれ一家に重くのしかかる。
国民党との内戦に勝利した後、1949年頃に共産党が中国全土で支配を確立すると、当然、長沙にも新しい"主人"である共産党がやってきた。私の父も、そのひとりだった。
共産党の登場は、母に不幸をもたらす。前夫は何も罪を犯していなかったにもかかわらず、共産党の秘密党員だった副校長に告発され、刑務所に送られてしまった。母は、やむなく離婚。長沙から南に150キロほど離れた衡陽(こうよう)市の親戚の家に移り住んだ。
その後、母は知人の紹介で私の父と知り合う。父は約3年間、人民解放軍に所属して兵士として戦った後、長沙にやって来て師範大学で勉強していた。軍人ながら達筆で、小説も書く文人気質の父を、軍が特別に選んで大学に送り込んでいたようだ。本来なら、2年の学習期間が終わると別の地方の部隊に異動しなければならなかったが、母と出会い、なんとか理由を作って長沙に居座ったらしい。
父は、共産党の政権下では「経歴がいい」人物である。きっと、若い女性にかなりモテたはずだ。それが5歳も年上、しかも、前夫との間に2人の子供がいた母を好きになり、結婚した。息子の私が言うのも何だが、母はそれほど魅力的だった。彼女の写真を今も時折見返すが、私とそっくりのくっきりとした目鼻立ちで、笑うと実にチャーミングな人物だった。
見た目だけではない。母は国語教師として、当時、中国で深刻な問題だった文盲(文字の読み書きができない人のこと)をなくすことに力を尽くす人でもあった。今になって思えば、父の文人としての才能は作家としての私に、そして、母の社会に貢献する意思は、政治家としての私に引き継がれているように思える。
結婚した後、両親の間には私を含む2男1女が生まれた。母が前夫との間にもうけた1男1女とともに家族7人、まずまず幸せに暮らしていたわが家に突然襲いかかったのが、文革の嵐だった。