文革に翻弄された私の少年時代
父は、造反派ナンバー3として活躍していた最初の数年間、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。当時、政治闘争でたくさんの大人が監獄に入れられ、あるいは下放政策によって農村に送られたため、街は通常の機能を失っていた。中国人映画監督のチアン・ウェンが文革をテーマに撮った『陽光燦爛的日子(邦題:太陽の少年)』という映画をご存じだろうか。子供たちが街を支配する、まさにあの世界だ。学校はすべて授業を行えず、私たち一家はしばらく校舎に住んでいたこともあった。校庭で好きなだけ、日が暮れるまで友達と遊んだ。
ある晩、学校に水道水を盗みに来る人たちが、順番争いで喧嘩になったことがある。見かねた父は例のピストルを取り出し、騒ぎのほうの空に向かって2回発砲した。秩序を取り戻すため立ち上がった父を見て、6歳の私は単純に「すごい!」と感心したものだ。
英雄だった父が「反革命分子」に
あるとき、どこからかやってきた「歌舞団(バレエ団)」が、私の通っていた小学校を宿舎にして練習していた。文革当時、毛沢東の妻で悪名高い江青(こうせい)が熱心に「革命バレエ」を普及しようとしていて、各地で歌舞団が毛沢東や共産党を讃美する踊りを熱心に練習していた。
私がこのとき見た歌舞団も、そのひとつだった。彼らの様子を教室のドアの隙間からこっそり見て、その音楽とダンスがいっぺんに好きになった。歌や振り付けを真似して、衣装の帽子がなければ代わりにタオルを頭に巻いて、すっかり彼らの演じる「革命戦士」になりきった。私はのちにバレエダンサーとして湖南省の歌舞団に所属することになるのだが、そのきっかけは明らかに、このときの「のぞき」体験にあった。
混乱しながらも、それなりに平和だった私の人生は、文革が始まってから5年後の1971年に大きく変わる。
抗日戦争(日中戦争)当時の共産党軍の有名な将軍で、毛沢東の後継者だった林彪(りんぴょう)がクーデター未遂事件を起こして逃亡、乗っていた飛行機がモンゴルで墜落した。この影響で父は突然逮捕され、大勢が参加した大批判集会「万人大会」で土下座させられることになったのだ。造反派ナンバー3として肩で風を切っていた男にとって、これ以上ない屈辱だ。
父は「再教育」と称して監獄に送られ、当時会社勤めをしていた母も「学習班」の名目で一時拘束された。家の門には「打倒 現行反革命分子 李正平」と書かれた壁新聞がでかでかと貼られ、しかも、父の名前の上には大きなバツ印が書かれていた。家の前に置いてあった水汲み用の甕には、通りかかったいじめっ子たちがツバを吐いていき、私も、文房具を盗まれるなどの嫌がらせを受けた。