ビルマで泳いだ男の数奇な人生
97年に心理学、刑事司法、生物学の3つの学位を取得してドルリー大学を優秀な成績で卒業。しかし07年、博士課程で心理学を学んでいたフォレスト・インスティテュートを追い出されてしまう。精神科病院を実習で訪れた際に同行の教授に暴言を吐き、「要注意人物」扱いされたと家族は説明する。
一家をさらに大きな不幸が襲っスたのは、この年の夏のことだった。8月2日の早朝、17歳の息子クリントが猛スピードでオートバイを走らせていて事故を起こし、帰らぬ人になった。そのオートバイは、1年前の誕生日にイエッタウが買い与えたものだった。
数週間前、クリントが死ぬというお告げがあったのにそのまま放置してしまったと、イエッタウは自分を責めた。息子の亡きがらは自宅の庭に埋葬した。
この出来事がイエッタウにとって大きな転機になった。「『誰かここから救い出してくれ』と叫び出しそうな様子だった」と、妻のベティは振り返る。現状を打開するために何かが必要だと、イエッタウは思い始めたようだ。
08年5月、イエッタウと息子のブライアンはアジアで数カ月放浪の日々を送った。スー・チーに執着し始めたのはこの時期だ。
9月に入ってブライアンが学校に戻るために帰国すると、イエッタウはタイのメーソットという町に向かった。ドラッグや人身売買で知られる町で、川を挟んだ対岸はビルマ領。ビルマの軍事政権の工作員も大勢潜入していた。「ありとあらゆる陰謀が行われている町」だと、タイで発行されている亡命ビルマ人向け雑誌イラワジの編集長アウン・ザウは言う。
この町の安ホテルに落ち着いたイエッタウは政治的な発言をしきりにするようになったと、ホテルのオーナーは言う。「スー・チー抜きではミャンマーに本当の民主主義は訪れない、と言っていた。世界の関心をもっと引き付けるために、どうしても何かしなくてはならないとも述べていた」
イエッタウはタイの複数のNGO(非政府組織)と接触し、いわば準メンバーとして活動させてほしいと働き掛けたが、受け入れる団体はなかったと、ある援助関係者は言う(この記事の取材に応じたほかの人たちと同様、政府の報復を恐れて匿名を希望)。
昨年11月にも「違法遊泳」?
別の援助関係者によれば、イエッタウは「妄想に取りつかれて」いて、「情緒不安定」で「落ち着きがなかった」という。「至って善良な人物で、他人に危害を加えるタイプではない」と、この援助関係者は言う。「だが『神にこうだ、ああだと言われた』というようなことをいつも言っていた」
この後、何が起きたかはっきりしたことは分からない。分かっているのは、イエッタウが10月に宿泊料を払わないままメーソットのホテルから姿を消し、しばらくしてバンコクに現れたことだ。政府の記録によると、10月27日、イエッタウはバンコクでビルマのビザを取得。ビルマのラングーン(ヤンゴン)に旅立ったのは、11月7日のことだった。