トランプが始めた、アメリカ民主主義を作り変える大実験の行方
A Trump's Experiment

rogistokーShutterstock
<DEIを否定し、移民を強制送還するトランプ政権。彼らがやっているのは、アメリカの民主主義の「土俵」を造り変える壮大な実験だ――ベテラン弁護士が法律家の視点から考える「アメリカの明日」>
アメリカのトランプ大統領が「MAGA」を叫ぶといつも不思議な感覚に襲われる。MAGA、つまりMake America Great Again、「アメリカを再び偉大にしよう」と言っている訳だが、聞く度にアメリカが「great」になるというようには聞こえない。むしろその逆に聞こえてしまう。もちろん単に筆者の感覚に過ぎないが、全くの見当はずれでもない。この不思議な感覚の由来は、おそらく「偉大」という言葉は自己評価ではなく他者にそのように評価されたときに最もふさわしく妥当し、偉大さを実現した人はこれ見よがしに声高にそれを叫ぶことはないという私たちの穏当な常識にある。同様に、「尊敬」というものは他人に厚かましく要求するものではないという常識にもそれなりの穏当さがある。だが、その古臭い常識を軽々とはね飛ばすことに、アメリカの人々はある種の魅力を感じるらしい。
筆者の思春期と学生時代が丁度ベトナム戦争の時代に重なる。筆者も周りの友人の多くもベトナム戦争に反対した。アメリカはベトナム戦争に敗れた。以来アメリカは、かつて日本に圧倒的に勝ったようには勝てなくなった、という意味において負け続けている。少なくとも、結果は思わしくない。
だが、あの時代のアメリカにはまだ輝きがあった。米哲学者ジョン・ロールズの『正義論」はアメリカの自由を尊重しつつ才覚や出自の恣意性に翻弄される人々に配慮した公平としての正義をうたい上げた。それは単なる社会政策の問題ではなく、社会正義に直結した。1967年に成立した情報公開法(FOIA)は、政府と人民の情報共有こそが民主主義の基礎を強固にすると強く訴えた。共有された情報とは、真実の情報だ。その自由と正義と民主主義は半世紀後、DEI、即ち多様性(diversity)、公平(equity)、包摂(inclusion)へと展開した。それはアメリカの自由と民主主義の正統な思想的発展に思える。
今、私たちの目の前にある現実のアメリカは、かつての理想を掲げた自由の国とはほど遠い。違法に入国した移民を強制送還するという。日本をはじめどこの国でもやっていることだ、では済まされない。合法・違法を問わず、移民によってアメリカという国は出来上がった。にもかかわらずその移民の一部を締め出すという。このアメリカの移民政策を見ると、筆者はいつも芥川龍之介の『蜘蛛の糸」を思い出す。糸は、自分の下(市民権のない違法入国の新移民)ではなく自分の上(旧移民を含むれっきとした市民)で切れてしまう。この蜘蛛の糸に喩えられる政策がアメリカにはたくさんありそうだが、その糸をどこで切るかは今後のアメリカを占う重要なテーマになる。排除の論理と、特定の民族や国家の優遇は自由とは真逆のものだ。それは、アメリカがその成立以来うたい続けてきた自由の中身とその真価を問う試金石になるだろう。
民主主義の基礎に真実の情報がある。ところが今現在、アメリカは情報の真実性に興味がないだけでなく、フェイクにご執心の人物が連邦政府の中心にいる。偽情報に無頓着なうえに意図的にその偽情報を流布する姿勢の根底に、権力を頼みとする傲慢がある、と見なされてもやむを得ない。古代ギリシャのことわざ(だけではない様々な地域のことわざ)によれば、傲慢は罰されるという。権力者にどんな罰が下されるのか、あるいは権力者に代わりアメリカ市民にどんな代罰が下されるのか、まだ何もわかってはいない。ひょっとしたら、それは世界中から寄せられる軽蔑や嘲笑という罰かもしれない。
少数者に対するアファーマティブ・アクションがロールズの正義論と深い関係があるにしても、そこから直接的に短絡したものだとは思えない。むしろ古き良き時代のゆとりあるアメリカの伝統が背景にあると思える。ところが、こうした動きに逆風が吹き始めた。それは、アファーマティブ・アクションに対する旧来の批判、例えば逆差別、悪平等といった批判に止まらず、それ以上の反感が社会に中に蔓延し始めているらしいことが原因のようだ。成功した黒人、煌びやかなLGBTQに対する白人貧困層のルサンチマンは、かつてドイツ人がユダヤ人に対して抱いた感情と類似している。それが個々人の、社会の片隅の分散された感情ならまだしも、政治的指導者が先頭に立ち、その感情を利用し集団化したとすれば穏やかではない。ヒトラーと同じ轍(てつ)を踏むことになる。かつて、トランプ氏をヒトラーだと非難した人が、今トランプ氏の下で副大統領を務めている。後味の悪い苦みが残る。