訴訟リスクを恐れて、母体を犠牲にしてでも処置に二の足を踏むアメリカ
‘CHILLING EFFECT’ OF ABORTION LAWS
DAVID MALAN/GETTY IMAGES
<米最高裁判決で、約半数の州で中絶が非合法となる見込みのアメリカ。医師だけでなく、薬剤師も法的責任を問われることに萎縮し、母体の生命が脅かされるのをただ傍観するだけに>
7月のある晩、テキサス州エディンバーグの病院の産科救急室にいたトニー・オグバーン医師の下へ、若い妊婦が運ばれてきた。
患者は激しいけいれんと出血があり、陣痛が始まっているものと判断された。まだ妊娠4カ月。この時期に母体の外に出たら、まず胎児は生きていけない。なのに、もう子宮頸管から産道にまで来ていた。早く流産させないと、大量の出血で母親が死んでしまいかねない。
経験豊富な産婦人科医のオグバーン(63)はすぐに手術をすべきだと思った。だが、既に保守派で固めた連邦最高裁は6月に女性の人工妊娠中絶権を認めた1973年の「ロー対ウェード」判決を覆していた。しかもテキサス州には、妊娠中絶を原則として禁ずる州法がある。
簡単には動けない。胎児の心臓はまだ動いていた。この段階で、人工的に妊娠を途絶する手術は合法だろうか?
テキサス州だけではない。人工的な妊娠中絶を非合法化し、あるいは近く非合法化しそうな州は、同州以外にも22州を超える。そういう州で患者と向き合う産婦人科の医師は、オグバーンと同じようなジレンマを常に抱えている。
産婦人科医だけではない。自分の患者に妊婦がいれば、どんな医者もどこかで中絶への「関与」を疑われかねない。薬剤師も慎重になる。大学で何を教えるかも微妙な問題だ。医療関係者の場合、SNSで中絶に関する特定の見解を書き込んだだけでも法に触れる可能性がある。
妊娠の中絶を選ぶ権利は妊娠中の女性にあるという憲法判断が覆された今、中絶の禁止・規制に関する権限は州政府に、そして州議会に委ねられた。こうなると医療現場は混乱する。州によって異なる法規の検討に時間を取られ、患者への適切な処置が遅れる可能性もある。
例えば麻酔科医は、後に法的責任を問われることを恐れて妊婦への麻酔を断るかもしれない。意図せずして流産した女性が、あれは妊娠中絶だったと担当医から告発される恐れもある。妊娠中絶の幇助・教唆の罪に問われることを恐れて、薬剤師が特定の薬の販売を拒むケースも考えられる。
もっと深刻なのは長期的な影響だ。法的に中絶が禁じられた州では、大学で妊娠の途絶に関する技術を教えることも難しくなる。そうなると、ただでさえ高いアメリカの妊産婦死亡率がさらに上昇する可能性もある。