訴訟リスクを恐れて、母体を犠牲にしてでも処置に二の足を踏むアメリカ
‘CHILLING EFFECT’ OF ABORTION LAWS
もともと人材不足の農業地帯では、さらに産婦人科医の不足が深刻になるだろう。先ごろ権威ある医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンに載った投稿には、テキサス州などの中絶禁止法が「広範囲の医療従事者を萎縮させ、患者のケアに悪影響を及ぼし、人命を危険にさらすだろう」とある。
「中絶の話は白か黒かの問題と思われがちだが」とオグバーン医師は言った。「実は妊産婦のケア全般に深刻な影響を及ぼすことになる」
従来の常識が通用しない
もちろん、中絶を原則として禁ずる州法もたいていは例外(母親の生命が脅かされる場合など)を認めている。だが最高裁判決の8カ月も前に施行されたテキサスの州法では、胎児の心拍停止が確認された後であっても、テキサス州民の妊娠を途絶させることに関与した疑いのある人物に対して、民間人が少なくとも1万ドルの損害賠償を求めて民事訴訟を提起できることになっている。
この通称「ハートビート(心臓鼓動)法」によれば、患者も医師も事後に、しかも第三者によって訴訟を起こされる恐れがある。
例えば子宮外妊娠の場合だ。妊産婦の2%弱に見られる事例で、受精卵が子宮外の器官(卵管など)に着床してしまう。この状態で胎児が生き延びる確率はゼロに近く、適切な対応をしなければ大量の内出血で母親の命が危なくなる。また受精卵が過去の帝王切開の瘢痕(はんこん)組織に付着する場合もあり、これも子宮外妊娠と同じくらい危険だ。
しかしテキサスの州法は子宮外妊娠を「子宮の外」に限定しているので、子宮内組織への異常な付着の場合に中絶手術を選択すれば違法性を問われるリスクがある。だから現場の医師は判断をためらう。他の約22州でも同じことになるだろう。
妊娠37週未満で羊膜が破れたらどうするかという問題もある。PPROM(早期産前期破水)財団によると、これはアメリカで早産の40%の原因となり、毎年約15万人の妊婦が経験している。最高裁の新たな判断が下るまで、多くの医師は米産婦人科医師会(ACOG)の指針に従っていた。
つまり妊娠18週未満で破水の場合、胎児の生存率は極めて低く、母体が感染症で敗血症になる恐れが大きいので妊娠を中絶すべきだとする医学的な指針だ。
しかし中絶を選択する女性の権利が失われた今、この学術的な指針に従うことは難しい。