「PCはカウンター・カルチャーから生まれた」服部桂の考える、人間を拡張するテクノロジー
服部)中でも重要な拡張は「言葉」でした。心や知識の拡張です。当初は危険を知らせる程度のものでしたが、発達することで経験者の知識を伝えたり、相手を動かしたりすることもできるようになったため、その後のあらゆるイノベーションの基礎になりました。書き言葉が発明され、印刷技術も普及すると、それまで貴族や僧侶など一部の知識層にとどまっていた情報がさらに広い階級にまで行き渡り、「知の革命」が起きたのです。
服部)テクノロジーという概念を人間が使うようになったのは、それからずっと後のことです。
産業革命より前、一部の匠だけが持てたノウハウには名前もなく(古代ギリシャ時代に「テクネロゴス」という言葉はあったが忘れ去られていた)、本人と不可分の才能とみなされており、本人がいなくなればその技術も容易に途絶えてしまいました。技・ノウハウといった「ソフト」と、人間の身体にあたる「ハード」を切り離すことがそれまでは不可能と考えられていたわけです。
ところが17世紀の科学革命以降の機械技術の発達や、産業革命で蒸気機関という機械を動かす効率的な仕掛けのおかげで、一部の人に限られていた優れたノウハウが機械で真似できるようになりました。職人だけが生み出していた美しい織物を、織機という機械が忠実に再現するといった具合にです。
つまり「ソフト」としてのノウハウと、それを実行する道具としての「ハード」がここで分離します。ここで初めて、人間はどういうノウハウで動いているのか、という視点が生まれ、初めてそれが意識されるようになり、「テクノロジー」と呼ばれるようになったのです。
(ドイツの技術学者ヨハン・)ベックマンはこうした属人的な部分を取り除いた、機械でも模倣できる技をテクノロジー(Technologie)と呼び、それらを広く工学全般に渡って集め、教科書として出版したのだ。だからといって、テクノロジーという言葉はすぐに理解されて普及したわけではなく、アメリカでも1939年まで一般的な意味で引用された事例はなく、それが初めて公式の文書で使われたのは、やっと第二次世界大戦が終わって戦後の復興が始まった頃の1952年の大統領の一般教書演説の中でのことだったという。(日本看護協会出版会 教養と看護 特集ナイチンゲールの越境:テクノロジ―・過去・未来 第三回 テクノロジーが宇宙を変えるとき)
服部)労働から解放されたい、いい思いをしたいという欲求や、生まれで決まってしまう階級や運命から抜け出したいという願望などが新しいテクノロジーの動機となる。こうした人間の生存欲求を原動力に模索を続けるうちにイノベーションが起き、そこから生まれた新たなテクノロジーによって社会が規定され、新たな価値観や規範が生まれてきます。
特にアメリカは、ヨーロッパで抑圧されてきた主に貧しい農民たちが、そうした制約から逃れてやって来た国なので、テクノロジーに対して寛大で、テクノロジーをとことん追求していくうちにコンピューターを生み出して実用化に至ったのです。(コンピューター開発はヨーロッパが先んじたが、実用化ではアメリカに負け敗退していった)。
20世紀後半からのデジタル化によって、アメリカ中心に、GAFAやインターネットが生み出すサービスが私たちの生活を想像もできなかったスピードで変えています。これからも新しいテクノロジーの出現で、いま自明のものと思われている「愛」とか「家族」「人生」といった価値観さえ変わっていくでしょう。