「PCはカウンター・カルチャーから生まれた」服部桂の考える、人間を拡張するテクノロジー
服部)権威の独占物として人間を支配するのではなく、人間の能力を拡大するためのコンピューターを、というそれまでと真逆の思想が実現した象徴的なできごとが1968年、サンフランシスコで開かれた、マウスの発明者でもあるダグラス・エンゲルバートによるoN-Line System(NLS)という、現在のネットにつながったパソコンを彷彿とするようなデモでした。
1968年12月9日、NLSは初めて一般に公開された。(中略)観客を驚かせたのはまず、コンピューターが数字を処理するものからコミュニケーションや情報検索のツールになったこと、それにたった一人の利用者が独占的に必要な情報をインタラクティブに操作する使われ方をしていたということだ。初めて、本当の意味でコンピューターがパーソナルな使われ方をされたのだ。(ジョン・マルコフ著・服部桂訳『パソコン創世「第三の神話」』)
服部)サイケデリック・カルチャーを代表する作家で『カッコーの巣の上で』を書いたケン・キージーは、スチュアート・ブランドとこのNLSを見にいっています。彼はパーソナル・コンピューターに触れたときの印象を「おれはコンピューターにゾクッと来た。これがこれからのフロンティアじゃないか。中毒性もなく、したいことの何倍ものことができる」と自著で綴っています。
デモを見たキージーは驚きのあまり眼を見開いたまま、「これこそ、LSDの次に来るものだ」と言うと、大きくため息をついた。コンピューターが作り出す情報のバーチャル世界に圧倒され、これが脳を破壊してしまうドラッグを使わなくても、LSDのように人間の意識を高める何かであることに気付いてショックを受けたのだ。 (マガジン航:聖なるテクノロジー〜『テクニウム』の彼方へ)
服部)パーソナル・コンピューターはいまや当たり前に、私たちの仕事仲間、相談相手、遊び相手になりました。ネットで他人とつながって様々な知識やデータを共有できるようにもなった。60年代の人々が理想に描いた、個人の能力を伸ばすため進化した道具が、半世紀経ってやっと皆のものになったといえます。
テクノロジーは身体機能の「拡張」である
コンピューターは本来、ただの計算を速く行うマシンではなく、人間を人間以外のものを使って再現するテクノロジーだということです。車は人間の足を機械化したものだし、ドライバーは指の延長線となるものだったが、コンピューターは人間全般の能力を扱うものになるんじゃないかということです。このトレンドを大げさに言うならば、コンピューターが人間の存在を問い直すとでも。(服部桂著『VR原論ー 人とテクノロジーの新しいリアル』)
服部)人はもっと生活を便利にしたいという欲求から、テクノロジーを使い、自分たちの身体的能力以上の成果を引き出してくることで、豊かになり寿命も延びました。テクノロジーの定義はあいまいですが、人間にまつわる言葉から石器からコンピューターまでのありとあらゆる有形無形の人工的な行動意図を「拡張」したものがテクノロジーだといえます。石器は手の、はさみは指の、望遠鏡は目の、車は脚の「拡張」といった具合に。