コラム

香港長官「条例撤回」は事実上のクーデター

2019年09月06日(金)16時00分

林鄭行政長官はすべてを計算したうえで逃亡犯条例を撤回したのか Thomas Peter-REUTERS

<突然の林鄭行政長官の「逃亡犯条例」完全撤回に不気味な沈黙を続ける中国政府。条例撤回はデモで追い詰められた林鄭が、習近平にすべてを責任転嫁する計算づくの「反逆」だった?>

香港政府トップの林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は9月4日のテレビ演説で、刑事事件の容疑者を中国本土へ引き渡すことを可能にする「逃亡犯条例」改正案を完全に撤回すると表明した。

6月から香港で続いている大規模な抗議運動とそれに伴う香港社会の大混乱は、まさにこの「逃亡犯条例」改正案の提出から始まった。行政長官による完全撤回の表明は、香港だけでなく世界から注目される大事件であり、香港情勢の大逆転でもあった。

ここで浮上した問題の1つは、この決定は中国政府の指示によるものなのか、それとも香港政府あるいは行政長官の独断によるものか、ということである。撤回表明翌日の5日に林鄭は記者会見を行ったが、その中では中国政府の支持を得て香港政府が決定したと発言。「すべてのプロセスにわたって、中央人民政府はなぜ撤回が必要かを理解している、との立場をとった。中央政府は私の見解を尊重し、一貫して私を支持してくれた」と語った。

この発言からすれば、香港政府は事前に北京政府のお墨付きを得たことになる。だが1つ不可解な点がある。もし林鄭が事前に中国政府の「支持」と「理解」を得ていたのであれば、4日のテレビ演説でなぜ「中央政府の支持と理解を得た」と言わなかったのか。

中国政府は茫然自失?

さらに奇妙なことに、林鄭が記者会見した同じ5日、肝心の中国政府は「理解」や「支持」をいっさい表明していない。それどころか、中国政府のいかなる機関もこの件について言及せず、完全な沈黙を守っている。

中国政府の沈黙は実に興味深い。このような反応(あるいは無反応)を見ると、「事前に中央政府の理解と支持を得た」という林鄭の言い分は怪しい。中国の中央政府はむしろ、彼女からの「不意打ち」を喰わされて茫然自失しているのではないか。

林鄭の発言を否定するもう1つの材料はすなわち、撤回表明の前日の3日、中国国務院香港・マカオ事務弁公室の報道官が記者会見で行った発言だ。

この記者会見の中で、楊光報道官は記者からの質問に答える形で、香港のデモ隊が掲げている5大要求について発言した。彼はそこで、「それは要求でも何でない。赤裸々な『政治的恫喝』であり、『政治的脅し』だ」と述べ、この5大要求を完全に拒否する姿勢を示した。

いわゆる国務院香港・マカオ弁公室は中国の中央政府直轄下の政府部門であるから、この発言は当然、香港市民の5大要求に対する中国政府の正式見解であると理解していい。その当日から翌日にかけて、人民日報海外版や中国国務院弁公室の公式サイトは「過激派の5大要求は赤裸々な政治恫喝だ」と、上述の楊光発言を大きく報じた。

林鄭と周辺の奇妙な動き

つまり、少なくとも9月3日と4日の時点で、共産党政権は香港市民の5大要求に完全拒否の姿勢を貫き、むしろ「政治的恫喝」として厳しく批判していた。そして5大訴求の第1条は「逃亡犯条例改正案の完全撤回」である。5大要求を「政治的恫喝」だと断じて完全拒否の姿勢を示しておきながら、要求の1つである「改正案撤回」を容認するのはあり得ない。

もし、林鄭による撤回表明が中国政府の事前了解と支持を得ていないのであれば、彼女のこの動きは明らかに反乱であり、一種のクーデターと見ていい。そして、林鄭による撤回表明がクーデターであるという視点に立てば、8月末から9月3日にかけて林鄭とその周辺で起きた一連の奇妙な動きの意味が分かってくる。

プロフィール

石平

(せき・へい)
評論家。1962年、中国・四川省生まれ。北京大学哲学科卒。88年に留学のため来日後、天安門事件が発生。神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。07年末に日本国籍取得。『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)で第23回山本七平賞受賞。主に中国政治・経済や日本外交について論じている。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲うウクライナの猛攻シーン 「ATACMSを使用」と情報筋
  • 4
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 5
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 6
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 7
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 8
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさ…
  • 9
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 10
    雪の中、服を脱ぎ捨て、丸見えに...ブラジルの歌姫、…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 8
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    大麻は脳にどのような影響を及ぼすのか...? 高濃度の…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story