- HOME
- コラム
- プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
- 「イッサイ反論しない」という国語入試問題のどこが問…
冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
「イッサイ反論しない」という国語入試問題のどこが問題か?
立命館大学の国語の入学試験で、「イッサイ」という漢字を書かせる問題を出題したところ、試験の際に使用する受験票に「遅刻は一切認めない」という文言があったそうです。これが「出題ミス」だとして、各新聞(電子版、恐らくは紙版も)はイッセイに取り上げているようです。尚、立命館大学は「正解が容易に類推できる」という理由から、この問題に関しては全員を正解にしたと伝えられています。
まず私には、この一連のエピソードが滑稽に見えて仕方がありません。
まず、どうしてこれが「出題ミス」なのでしょう? まずここで確認しておきたいのですが、漢字の書き取りというのは「(1)文脈から他の同音異義語を排除して正しい熟語を判定し、その上で(2)正しい漢字表記を書く」という能力を見たいからやっているのだと思います。
今回は、結果的に「一切」という字が受験票にあったので、「目ざとい」受験生は「仮に(2)の能力に欠けていても」正答に至ったわけで、そのために「出題ミス」だということになったわけです。ですが、私に言わせれば仮に「しまった、イッサイってどういう字だったっけ?」という間抜けな受験生であっても、受験票を見て「あっそうか、「一切」だな」と気づくということは「(1)」の能力は立派にあるわけです。
逆に、受験票に「一切」という字があるのに、正答に至らなかったという受験生は「(3)そもそも他の同音異義語と勘違いしていた」か、あるいは「(4)まさか受験票に正答があるなんて気がつかなかった」ということになります。この「(3)」と「(4)」のケースというのは、どう考えても日本語の能力として劣るのではないでしょうか? 今回の「ミス騒動」の結果として、この「(3)と(4)」のケースが救済されるというのは、大騒ぎする話ではありませんが、どうしても滑稽に見えてしまいます。
それ以前の話として、「自分に対する批判にはイッサイ反論しないことにしている」という用法における「イッサイ」を「一切」と書かせるというのは、天下の立命館の漢字の書き取りとして何とも易しすぎるように思われます。そう考えると、受験票にヒントがあるにも関わらず正答に行き着かなかった受験生が救済されるというのは、尚更奇妙に思えてくるのです。
ここまでは失礼ながらどうしても「滑稽な話」としか思えないのですが、この出題に関しては実はもっと「笑えない話」が入っていると思います。
この問題ですが、出典は内田樹氏の文章で、私が調べたところでは、ブログ「内田樹の研究室」の2009年1月7日の「読者と書籍購入者」というエントリを一部改変したもののようです。テーマは、テキストの電子化と無償閲覧についてであって、グーグル問題が議論になっていた時期に書かれたものだと思われます。要するに内田氏は日本文藝家協会の「アンチ・グーグル」の主張に対して、「ネット上で無償で読める読者が一気に増えること」は悪くないと批判しているのです。
内田氏は、「私たちは無償のテクストを読むところから始めて、やがて有償のテクストを読む読者に育ってゆく。この変化は不可逆的なものであると私は考えている。」という指摘に始まって「物を書く人間に栄光があるとすれば、それはできるだけ多くの読者によって「それを書架に置くことが私の個人的な趣味のよさと知的卓越性を表示する本」に選ばれることであろう。」と宣言するなど、なかなかに刺激的な文章です。要するに「無料閲覧で売上が落ちると考えている人間は狭量だ」とバッサリこき下ろしているのです。
中でも「ネット上で無料で読もうと、買って読もうと、どなたも「私の読者」である。本は買ったが、そのまま書架に投じて読まずにいる人は「私の本の購入者」ではあるが、「私の読者」ではない。私が用があるのは「私の読者」であって、「私の本の購入者」ではない。」という辺りは、内田氏の面目躍如というところですが、同時にこの意見に反対の人には許し難い内容だとも言えます。
私が「笑えない」と思ったのは、この「問題文」が「現在進行形の世論を二分する論点」を扱い、しかも明らかに「その一方の側の強い主張」だということです。私はこの内田氏のように「結論のハッキリした文章」というのはいいと思います。また、そうした結論のハッキリした文章を18歳前後の若者がドンドン読むということも良い事だと思います。ですから、この文章を入試問題に取り上げたという事自体は、目くじらを立てるべきこととは思いません。
ただ、前提知識のない若者が、いきなり内田氏の「強い意見」に接してしまって、著作権に関する議論を単純化して理解するという可能性に関しては、何らかの補完が必要とも感じています。少なくともエンターテイメント産業の経済的価値としての著作権、あるいは著作隣接権や著作者人格権といった概念についての説明は最低限しておかないといけないと思うのです。この点に関しては、私は立命館の出題が「ミス」だとは思いませんが、内容を補完するという意味での論評は必要と思います。
同じような例では、今年のセンター試験「国語」の一番は、もっと問題があると思います。ここでは、小林秀雄の『鍔(つば)』という「刀剣の「つば」の美学」を扱ったエッセーを読ませているのですが、正に小林の弱点を羅列したような「怪作」であり、大勢の受験生の国語能力を判定するためのテキストとしては問題があると思います。
小林の主旨は、日本刀の鍔というのは応仁の乱以降、戦乱の世に入ったことを契機として「命のやりとり」が現実味を帯びる中で、人々が、かえって刀剣の部分に精神性を求めたというストーリーであり、それを理解するには平家琵琶のリズムがむしろ明るいとか、信州は高遠城の桜を見て滅亡した武田氏の運命に思いを寄せるのが良いといった「脈絡のない印象論の飛躍」が展開されるのです。
この作品の場合は、美術史学の研究が進む中で、この「鍔の進化」の話が今でも説得力を持っているか怪しいということ、特に江戸期の洗練や地方での個性的な鍔の発展の話が全く出てこないことが気になります。それ以前の話として、絶望的なまでの非論理性を抱えたテキストであり、入試問題としては不適切でしょう。
いずれにしても、入試問題というのは受験生だけでなく、過去問として多くの若者が真剣に取り組むテキストなのですから、その選択にあたっては忙しい研究者に押し付けるのではなく、専任のプロを養成するなどして、万全を期すべきだと思います。少なくとも、どんなテキストを選ぶのかという問題の方が「イッサイ」の漢字書き取りの答えが受験票にあったなどという「下らない」話より重要と思います。
(お詫びと訂正)
当初、小林秀雄が「高遠城で信玄の息子が死んだ」と書いている点を誤りではないかという記述をしていました。確かに信玄の後継者である武田勝頼の終焉の地は高遠ではなく天目山ですが、その天目山の戦いの前哨戦として高遠で討ち死にした仁科盛信という武将は、信玄の五男であり(別名は仁科五郎)、この点に関しては小林の記述は間違いではありません。お詫びと共に訂正させていただきます。
環境活動家のロバート・ケネディJr.は本当にマックを食べたのか? 2024.11.20
アメリカのZ世代はなぜトランプ支持に流れたのか 2024.11.13
第二次トランプ政権はどこへ向かうのか? 2024.11.07
日本の安倍政権と同様に、トランプを支えるのは生活に余裕がある「保守浮動票」 2024.10.30
米大統領選、最終盤に揺れ動く有権者の心理の行方は? 2024.10.23
大谷翔平効果か......ワールドシリーズのチケットが異常高騰 2024.10.16
米社会の移民「ペット食い」デマ拡散と、分断のメカニズム 2024.10.09