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李禹煥は、どのように現代アーティスト李禹煥となったか
しかし、リルケやハイデガーについて研究し、ニーチェや現象学、構造主義に興味を持つようになったことは、彼の思考に大きな影響を与えた。
さて、それほど拘りのあった文学の道だが、外国語で文章を書くことに限界を感じ、諦めて大学院に進もうとした矢先、韓国に一時帰国中の1961年5月にクーデターが起こり、すぐに日本に戻れなかったため大学院進学の道を閉ざされてしまう。
また、南北統一運動や軍事政権反対運動にも参加したが(70年代には韓国帰国中には拷問も経験している)、自身には向いていないと感じ、距離を取るようになった。そんな中、仕方なくアルバイトをしていたときに、現代アートとの出会いが訪れるのである。
彼がアルバイトをしていた日本在留の韓国・朝鮮人留学生を支援する朝鮮奨学会のビル内に「ギャラリー新宿」がオープンし、そこで石子順造、中原佑介、赤瀬川原平、中西夏之といった評論家や作家たちに出会う。
李は学生時代にも折に触れて絵は描いており、それを売って学費や生活費を稼いだりしていた。大学時代に、アメリカのジャクソン・ポロックやマーク・トビーなどの作品を本で知り、面白そうだと思い1958~59年頃に描いてみたりはしたそうだが、ギャラリー新宿での様々な人との出会いや、この頃観た展覧会でオプティカルな錯覚等を通して現実を捉え直したこと、既存の概念に対する批判の可能性を感じたことが、作品制作の直接的な契機となった。
本人いわく、1967年のサトウ画廊での展覧会が、何か考えを打ち出すという形でやった最初の展覧会で、「この時に(美術を)本格的に出来るかな」と感じ、1968年の東京国立近代美術館での「韓国現代絵画展」にピンクの蛍光塗料を用いた作品を展示した際に、「この道でなんとかやっていけるかもしれない」と思ったという。
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