コラム

『悪魔の詩』著者の命を執拗に狙う「神の勅令」を、イスラム教徒はどう考えているのか

2022年09月13日(火)19時25分
ホメイニ師33周忌

ホメイニ師の33周忌集会(テヘラン、今年6月) OFFICE OF THE IRANIAN SUPREME LEADERーWANAーHANDOUTーREUTERS

<1989年のホメイニ師のファトワに賛同する「信奉者」にとっては、『悪魔の詩』著者・サルマン・ラシュディの襲撃は正当化されるが>

小説『悪魔の詩』の著者サルマン・ラシュディ氏が8月12日、ニューヨークの講演会場で襲撃され重傷を負った。実行したレバノン系米国人のハディ・マタル(24)はその場で拘束され既に起訴されたが、無罪を主張している。

事件の背景には、単なる殺人未遂とは見なせない深淵な事情がある。

『悪魔の詩』出版の翌1989年、当時のイラン最高指導者ホメイニ師は同書を「イスラム教、預言者、コーランに反する文章」と認定し、著者ラシュディだけではなくその内容を知りつつ編集や出版に関わったあらゆる人々に「死刑を宣告」、イスラム教徒に対し彼らを「殺害」するよう呼び掛けるファトワを発行した。

ファトワというのは、特定の問題についてイスラム法学者が発行するイスラム法的な「見解」である。あくまでも見解であり裁判官の下す判決ではないため、公権力による執行が担保されているわけではなく、異論も反論もあるのが通例だ。

一方で、あるファトワが信者に与える影響は時に計り知れないほど大きくなり、信者を行動へと駆り立てることもある。

イスラム教の教義は信者に対し、神の法(イスラム法)のみに従うことを義務付ける。しかし神は個々の具体的事案について直接的に判断を下すことはない。それを委ねられているのがイスラム法学者である。故にイスラム法学者の見解であるファトワは神の判断の「近似値」と見なされ、高い価値が認められる。

神の勅令に等しかったファトワ

ホメイニ師は生前、イランにおける最高位のイスラム法学者だっただけでなく、79年のイラン・イスラム革命のイデオローグとしてもカリスマ性を誇る。

米メディアは、マタル容疑者のフェイスブックのアカウントのトップ画面にホメイニ師と現在のイラン最高指導者ハメネイ師の写真が掲載されていたことや、彼がホメイニ師について「尊敬している。素晴らしい人物」と述べた旨を報じている。ホメイニ師の信奉者にとって彼のファトワは神の勅令に等しい。

いみじくもイラン国営のイラン・デイリー紙は、マタルの襲撃を「神の勅令の実行」と称賛し、イラン当局はマタルとの関係を否定した上で、非難されるべきはラシュディ自身だと主張した。自業自得だというわけだ。

プロフィール

飯山 陽

(いいやま・あかり)イスラム思想研究者。麗澤大学客員教授。東京大学大学院人文社会系研究科単位取得退学。博士(東京大学)。主著に『イスラム教の論理』(新潮新書)、『中東問題再考』(扶桑社BOOKS新書)。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

イスラエル首相、強硬姿勢崩さず 休戦交渉不調に終わ

ビジネス

Tモバイルとベライゾン、USセルラーの一部事業買収

ワールド

習氏がハンガリー首相と会談、さらなる緊密化アピール

ワールド

米中関係、この1年で明らかに改善=イエレン米財務長
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:岸田のホンネ
特集:岸田のホンネ
2024年5月14日号(5/ 8発売)

金正恩会談、台湾有事、円安・インフレの出口......岸田首相がニューズウィーク単独取材で語った「次の日本」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必要な「プライベートジェット三昧」に非難の嵐

  • 2

    休養学の医学博士が解説「お風呂・温泉の健康術」楽しく疲れをとる方法

  • 3

    日本の10代は「スマホだけ」しか使いこなせない

  • 4

    上半身裸の女性バックダンサーと「がっつりキス」...…

  • 5

    ロシア軍兵舎の不条理大量殺人、士気低下の果ての狂気

  • 6

    「レースのパンツ」が重大な感染症を引き起こす原因に

  • 7

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 8

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 9

    ウクライナ防空の切り札「機関銃ドローン」、米追加…

  • 10

    自民党の裏金問題に踏み込めないのも納得...日本が「…

  • 1

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地ジャンプスーツ」が話題に

  • 2

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 3

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS攻撃「直撃の瞬間」映像をウクライナ側が公開

  • 4

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 5

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 6

    外国人労働者がいないと経済が回らないのだが......…

  • 7

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 8

    「自然は残酷だ...」動物園でクマがカモの親子を捕食…

  • 9

    「レースのパンツ」が重大な感染症を引き起こす原因に

  • 10

    翼が生えた「天使」のような形に、トゲだらけの体表.…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 7

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 8

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 10

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story