コラム

「医学的な根拠はない」のに、マスクを外せない...「キリシタンの踏絵」と化したコロナ対策の末路

2023年04月28日(金)07時56分

江戸時代にキリスト教が禁止され、主に九州で宗教統制のために「踏絵」が行われたことを、知らない日本人はいないだろう。キリスト像などを描いた絵を領民や、特に信仰が疑われた者に踏ませて、「キリスト教徒ではない」ことを示させたものだ。

もっとも、これが民衆の内面にまで公権力が分け入る「過酷な宗教弾圧」だったのかに関しては、近年疑義が呈されている。実は、200年間を超える幕府の弾圧に抗してカクレキリシタンが「キリスト教の信仰を守り通した」というのは、後世に作られたロマンに過ぎず、史実ではなかった。

潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)など宮崎賢太郎氏の研究によれば、そもそも九州では戦国時代に受洗したキリシタン大名が領民にも改宗を「強制」した例が多く、その意味で彼らの信仰は出発点においては、必ずしも自発的なものではなかった。大名が入信した理由にせよ、武運長久を祈る上でご利益の大きい「仏教の新たな守護神」のように誤認していた例が目立ち、キリスト教の内実をきちんと理解した庶民の信徒がいたとは、当時の識字率等を勘案すれば想定しがたい。

そこから拷問で棄教を迫られても転ばずに死を選ぶような、信仰心の篤いキリシタンの農家が育っていったのは事実だ。しかし彼らの主観的な意識としては、一族に繁栄をもたらす守り神として決して秘密を明かさぬよう語り継がれた「先祖代々の教え」を守ったのであって、それを「唯一神であるイエス・キリスト」に殉じたものと読み替えるのは後世の創作である。

何よりの証拠は、1873年に明治政府がキリスト教を解禁しても、晴れてカトリック教会の信徒となった「復活キリシタン」はごく一部であることだ。その他の多くは、戦国時代に作られたローカルな民俗信仰の慣習を人目に触れない形で秘かに守り続ける「カクレキリシタン」を、今日に至るまで続けている。

さてここで、キリスト教を「近代科学」に置き換えてみよう。マスクをつける人こそが「科学的」であり、パンデミックの克服に協力するよき市民だとするイメージは、一時期あらゆるメディアを席巻した。しかしすでに見たとおり、その主張には医学的に十分な根拠がない。

むしろ私たちがマスクを着け続けてきたのは、近代科学とはまったく異なる別の理由によるものだ。それは日常生活で接する周囲のローカルな集団に対して、「私はまじめですよ」「みなさんの調和を破りませんよ」との信仰を互いに告白しあう、一種の民俗宗教だろう。

まさしく誕生のきっかけこそ宣教師の来日であれ、日本に固有の文脈の下で正統派のキリスト教とは別個で独自の内容に育った「カクレキリスト教」に等しい存在が、いまや世界でわが国だけに残る「マスク信仰」だったわけである。

コロナ禍との対照で興味深いのは江戸時代の後期、1805年に天草地方で発覚した潜伏キリシタンの事例だ(天草崩れ)。なんと全人口の3分の1がキリシタンであることがわかってしまい、強硬路線で全員を弾圧すれば「経済が回らない」事態となった。

そのため領主側は彼らをキリシタンと見なさず、単なる「心得違い」にすぎないとし、拝んでいたご神体を供出させた上で、踏絵を踏ませたのみで無罪放免とした。「マスクさえしていれば」旅行や外食にも目を瞑ろう、という今日の私たちの心性と、「踏絵さえ踏むなら」それ以上の詮索はやめようとする近世期の宗教統制の発想は、実はそう違わない。

プロフィール

與那覇 潤

(よなは・じゅん)
評論家。1979年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科で博士号取得後、2007~17年まで地方公立大学准教授。当時の専門は日本近現代史で、講義録に『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』。病気と離職の体験を基にした著書に『知性は死なない』『心を病んだらいけないの?』(共著、第19回小林秀雄賞)。直近の同時代史を描く2021年刊の『平成史』を最後に、歴史学者の呼称を放棄した。2022年5月14日に最新刊『過剰可視化社会』(PHP新書)を上梓。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米求人件数、10月は予想上回る増加 解雇は減少

ワールド

シリア北東部で新たな戦線、米支援クルド勢力と政府軍

ワールド

バイデン氏、アンゴラ大統領と会談 アフリカへの長期

ビジネス

韓国政府「市場安定に向け無制限の流動性を注入」、ウ
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:サステナブルな未来へ 11の地域の挑戦
特集:サステナブルな未来へ 11の地域の挑戦
2024年12月10日号(12/ 3発売)

地域から地球を救う11のチャレンジと、JO1のメンバーが語る「環境のためできること」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    健康体の40代男性が突然「心筋梗塞」に...マラソンや筋トレなどハードトレーニングをする人が「陥るワナ」とは
  • 2
    NewJeansの契約解除はミン・ヒジンの指示? 投資説など次々と明るみにされた元代表の疑惑
  • 3
    NATO、ウクライナに「10万人の平和維持部隊」派遣計画──ロシア情報機関
  • 4
    スーパー台風が連続襲来...フィリピンの苦難、被災者…
  • 5
    シリア反政府勢力がロシア製の貴重なパーンツィリ防…
  • 6
    なぜジョージアでは「努力」という言葉がないのか?.…
  • 7
    ウクライナ前線での試験運用にも成功、戦争を変える…
  • 8
    「時間制限食(TRE)」で脂肪はラクに落ちる...血糖…
  • 9
    「92種類のミネラル含む」シーモス TikTokで健康効…
  • 10
    赤字は3億ドルに...サンフランシスコから名物「ケー…
  • 1
    BMI改善も可能? リンゴ酢の潜在力を示す研究結果
  • 2
    エリザベス女王はメーガン妃を本当はどう思っていたのか?
  • 3
    リュックサックが更年期に大きな効果あり...軍隊式トレーニング「ラッキング」とは何か?
  • 4
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 5
    メーガン妃の支持率がさらに低下...「イギリス王室で…
  • 6
    ウクライナ前線での試験運用にも成功、戦争を変える…
  • 7
    「時間制限食(TRE)」で脂肪はラクに落ちる...血糖…
  • 8
    黒煙が夜空にとめどなく...ロシアのミサイル工場がウ…
  • 9
    エスカレートする核トーク、米主要都市に落ちた場合…
  • 10
    バルト海の海底ケーブルは海底に下ろした錨を引きず…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 4
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 5
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 6
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 7
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 8
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 9
    ロシア陣地で大胆攻撃、集中砲火にも屈せず...M2ブラ…
  • 10
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story