ミャンマーでエンタメとクリエイトする日々
「Take care bro」照れくさいけど伝えたい言葉 2
みなさん今晩は。
新町です。
今日の投稿は昨日の続きになっています。
まだ読まれてない方は先にそちらをお読みください。
https://www.newsweekjapan.jp/worldvoice/shimmachi/2021/04/take-care-bro.php
私はミャンマー人に甘い(というか誰にでも甘い)と言われるんですが、実はこれまで30人~40人程のミャンマー人をクビにしています(日本人も数名います)
当時も色々事情はあったのですが、基本的には去る者は追いません。
辞めたいというならその気持ちは尊重するし、そもそもそういう人を引き留めてもしょうがないという考えでした。
しかし、彼の時は全力で止めました。
そんなスーパーな彼なのですが、実は何度か辞めたいと言った時があったのです。
理由は彼を重用する事を気に入らない他の社員が彼をいじめたからです。
それもまあ陰険なやり方だったようです。
結論を先に言うと最終的にはそういった人間は全部辞めました。
というより、実はミャンマーに来て仕事を始めた時に居たスタッフで唯一残っているのは彼だけなんです。
彼だけは手放してはいけないと何度か残ってもらえるよう、一緒に頑張れるよう説得し残ってもらって今に至ります。
まあ当時は自分より年上で役職も上の人間にいじめられてた訳ですから彼も大変だったろうと思います。
そんな彼も立派になりました。
数年前から会社の社長を任せています。
その頃からもう辞めたいというような事をいう事はありません。
前以上にしっかりとみんなのリーダーとして、私の良きパートナーとして一時期は20人居たスタッフの面倒を見てくれていました。
冒頭、私はシャイボーイという話しをしましたが、彼もどちらかというとシャイボーイです。
ミャンマーの若者はそれでも仕事仲間などすぐ仲良くなり兄弟のように接するのですが、特にシャイボーイでましてや外国人でそもそも16歳も年上のオッサン上司ですから彼も私の事を「兄弟」というような表現はしてきませんでした。
彼以外にはそうやってすぐ慣れ慣れしくしてくる奴は一杯いましたよ。
勿論沢山のトラブルや、大変な時期をこれまでも一緒にやってきてはいるのでお互い信頼もしてますし、色々お互い助け合ってやってきたという自信はあります。
まあそういう事ではあるのですが、別にまあ兄弟と呼び合う程距離を詰める程ではないのかなという感じはありました。
そんな彼とも少しずつ関係性が変わってきました。
去年の3月、ミャンマーにもコロナの波が襲ってきました。
4月より明けないコロナ禍が長く続いてしまいました。
会社は縮小を余儀なくされ、どうしても沢山の社員は抱えられません。
1人、また1人と社員に別れを告げるしかない中、私は何とか彼だけは残ってもらい再起を図るしかないというところにまで追い詰められました。
日本人経営者として、会社がこうなってしまった責任を大きく感じ、コロナを恨み打ちひしがれていた時に、彼から「自分に力がなくて申し訳ない」と言われました。
私はこんな事を彼に言わせてしまった事に申し訳ない気持ちで一杯でした。
くだらないプライドで色々とかっこうをつけ、誤魔化しながら会社を延命させていたのですが、ある時正直に私の現状も伝え、それでも何とか再起を目指したい、君には一番苦労をかけるけど、力を借して欲しいと伝えました。
そんな時に彼が言ってくれたのです。
「OK bro」
初めてでした。
6年一緒にやってきて彼がそう表現したのは。
二度見しました(笑)
何だか照れ臭かったですが、とても嬉しかったのを覚えています。
そして「一緒に頑張ろう、きっと良い時は来るよ」
というような事を言ってくれました。
私も長文で返す中にコッソリ「bro」という言葉を使って返しました。
6年の時を経て、上司と部下、ビジネスパートナーとなって最後は運命共同体とも言えるべき兄弟のような存在になれてのかもしれません。
とは言え、実際に会った時にはお互いそんな言葉はやはり照れくさくて使えません。
彼も使う事はありませんでした。
何とかミャンマーのコロナからの復活が見えた2月1日、私たちはそんなコロナが大した事は無かったと思わざるを得ないような事態に巻き込まれる事になります。
ようやく希望が見えてきたところにそれ以上のどん底に落とすような事があるのかと思いました。
しかもこれは天災ではありません。
間違いなく人災です。
現状の理解も納得もできないまま、コロナ禍以上の過酷な判断を経営者として下していかなければなりませんでした。
それでも諦める訳にはいきません。
私には兄弟となったパートナーもその家族も近しいところにいます。
どうにかこうにか、ここまで来て、そして出口はまだ見えないながももがいてあがいていくしかないと何とか今日も踏みとどまっているところです。
とある日に彼と二人で、少しばかり危険な仕事に出かける時がありました。
2月22日のデモの撮影です。
2021年2月22日という事で22222と2が並ぶ運動として大きなものにしようとミャンマー全土で何百万人という人がデモに出た日でした。
それまででもっとも大きなデモの規模になるであろう日に果たして軍がどれくらいの弾圧をしてくるのかは未知数でした。
勿論、2人とも危険は覚悟の上での仕事です。
朝、直前の打ち合わせを終えて出かける直前私は彼にこう声をかけます。
「Take care bro.」
あれ以来何度かメッセージで使う事はありましたが、言葉に出すのはこの時が初めてです。
彼は少しはにかんだような笑顔で応えました。
ご存知の通り、結果的にこの日は大きな事件もなく終わった一日だったのですが、大仕事をするべく向かった僕らには強い連帯感があったと思います。
撮影を終えて帰る時には心底ホッとしたのを想い出しました。
その時の映像はまだどこにも出していません。
僕らは報道の人間ではないのでそういった事には向かない映像ばかりですが、いつかどこかで作品にして世に出したいと願っています。
こんな時ですが、いやこんな時だからこそ、沢山の物語がミャンマーで産まれます。
沢山の物語をエンターテイメントな作品にして世に出すのが私の役目だと思っています。
素晴らしい仲間が沢山います。
このブログを読んでくださっている皆さんにも早く自慢したくてたまりません。
そんな日を夢見て今日もなんとかかんとかやっています。
2日に渡り長々と読んでいただきありがとうございました。
それではまた明日。
著者プロフィール
- 新町智哉
映像プロデューサー。2014年からミャンマー最大都市ヤンゴンに在住。MAKE SENSE ENTERTAINMENT Co.,Ltd. GM。日緬製作スタッフによる短編コメディ「一杯のモヒンガー」でミャンマーワッタン映画祭のノミネートを皮切りに世界各国の映画祭で受賞。起業家、歌手、俳優としてもミャンマーで活動する。
Twitter:@tomoyangon
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