アルゼンチンと、タンゴな人々
「タンゴの破壊者」アストル・ピアソラ生誕100周年
クラシック音楽の世界には「音楽の父」と呼ばれるJ.S.バッハがいますが、タンゴの世界にも、同じように「タンゴの父」と呼ばれる人たちがいます。彼らは、ブエノスアイレスの街のカフェやサロン、映画館などで演奏をしていました。
それ以前は労働者層の人々の間で踊られていたタンゴ。場末から、舞台は市街地に移行していき、タンゴを踊り楽しむことが人々の間で一般的になっていきます。1920年代のことでした。
ピアソラは、そんなタンゴブームに火がつき始めた頃、1921年に生まれます。
アルゼンチンで生まれるも、4歳の時に一家でニューヨークへ渡り、リトル・イタリー地区で過ごします。本人いわく「そこは、映画"ゴッド・ファーザーII"のような世界だった」頃で、悪さを覚えて7.8歳で警察にお世話になるような不良息子でした。見兼ねた父親からひとつの楽器をプレゼントされるのですが、それが、偶然町中のお店のショーウィンドーに並んでいた「バンドネオン」だったのです。それをきっかけに、ピアソラは8歳で音楽に目覚め始めます。
ニューヨークでの生活を経て16歳でアルゼンチンに戻り、徐々に演奏活動を始めます。本格的に作曲を勉強し始めるのもこの時から。しばらくして、とある有名タンゴ楽団に没頭し、彼らのレパートリーを暗譜するほどでした。
そして、よくある話ですが、ある時団員のバンドネオン奏者が病気で欠席したのです。
楽団のリーダーは、コンサートの度にやってくるその少年の存在に気付いており、その日をきっかけにピアソラは18歳にして有名楽団のバンドネオン奏者・編曲者として所属することとなったのです。その楽団は、"タンゴの父"の系譜を継ぐ、タンゴダンスの伴奏をするために演奏していたオーケストラでした。
さて、ここでひとつびっくりして頂きましょう。
こちらが、ピアソラ少年がその楽団の為に書いた2作目となる編曲作品です。冒頭部分を聴いただけで、先程の動画、リベルタンゴとは全く違った雰囲気であることがわかると思います。
ピアソラ少年は、既存の枠にハマることを嫌がり、斬新な編曲を書き続けました。リーダーにダメ出しされては音を消し、書き直し、の繰り返し。仲間のミュージシャンからも、音数が多すぎると文句を言われる始末。結果、その楽団のスタイルには合わないと、5年間活動を共にしたのちグループを去ることになってしまうのです。
"消しゴム"のあだ名を持つことで有名だったリーダーとのやり取りについて、後にピアソラは「私が200の音を書いたら、彼によって100の音を消されていた。」と語っています。
さらには、作品を提出する際「怒らせるために変な和音を入れたりもしていた」とは、なんともピアソラらしいエピソードです。
その後、自分のバンドを持ち活動していくのですが、葛藤の時期がやってきます。タンゴを書いていくべきか迷い、クラシック音楽の作曲家を目指して、タンゴ作曲家であることを隠してフランスに勉強しに行ったのです。しかししばらくして先生には見抜かれてしまいます。彼のタンゴの作品を見た先生から
「これを手放さないで。ここにあなたの音楽があるわ、これがピアソラよ」と背中を押されるのです。
そうして彼は、フランスで学んだクラシック作曲の技法をタンゴに反映させていくことに成功します。
現在世界的にも演奏される機会の多いピアソラ作品群は、葛藤を経て自身の音楽を見つけていったこの時期、1960年代以降に作曲されたものが多いと言えるでしょう。皮肉にも、1959年に亡くなったピアソラの父親へ捧げられた名曲「アディオス・ノニーノ(さようならお父さん)」が、そのスタイル確立へのきっかけのひとつともなっているのです。
著者プロフィール
- 西原なつき
バンドネオン奏者。"悪魔の楽器"と呼ばれるその独特の音色に、雷に打たれたような衝撃を受け22歳で楽器を始める。2年後の2014年よりブエノスアイレス在住。同市立タンゴ学校オーケストラを卒業後、タンゴショーや様々なプロジェクトでの演奏、また作編曲家としても活動する。現地でも珍しいバンドネオン弾き語りにも挑戦するなど、アルゼンチンタンゴの真髄に近づくべく、修行中。
Webサイト:Mi bandoneon y yo
Instagram :@natsuki_nishihara
Twitter:@bandoneona