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中東から贈る千夜一夜物語

木村菜穂子|トルコ/エジプト

トルコ人のがん専門医の存在なしには「ファイザーワクチン」開発はなかった! その舞台裏に迫る

独 BioNTech 社 - iStock

日本でもファイザーワクチンについて聞かない日はありません。来る日も来る日も「ファイザー、ファイザー」です。トルコでは 2021 年 5 月 20 日にこんなニュースが流れました。

ドイツの BioNTech 社、 9 月末までにトルコに対して 1 億 2 千万回分のワクチンを供給へ。

BioNTech 社? ファイザーではなく別のワクチン? と一瞬思ったのですが、実はこれは一般的に「ファイザー」と呼ばれているワクチンと同じです。日本ではファイザーと呼ばれているこのワクチンは、実はドイツの BioNTech(ビオンテック) 社とアメリカのファイザー社が共同で開発したもの。共同で開発といっても、実は使われているのは BioNTech 社の技術で、この会社がファイザー社とタックを組んで大量生産しているものなのです。

この BioNTech 社の CEO はなんとトルコ人のお医者さん。今や押しも押されもしない「時の人」になったこの CEO。「全人類の救出者」と称されることもあるほどです。そう、このトルコ人のお医者さんの存在なしには「ファイザーワクチン」開発はなかったのです。今回はその舞台裏に迫ってみました。

独 BioNTech 社のトルコ人 CEO の正体は?

BioNTech 社はドイツのマインツにある小さなベンチャー企業。コロナ前までは大きな注目を浴びることはありませんでした。この企業の CEO は Uğur Şahin (ウール・シャーヒン) 博士です。がん専門医で、がん治療の中でも特に免疫治療の研究を重ねてこられたお医者さんです。

Uğur Şahin 博士は 1965 年にトルコ南部のハタイ県にあるイスカンダルーンという都市に生まれました。4 歳の時に家族でドイツへ移住。父親がケルンにあるフォード車の会社で働いていたためです。

ドイツではこうした労働者をガストアルバイター (Gastarbeiter) と呼びます。ゲストなんだけど働く人たちのこと、つまりその国の国籍を持たない出稼ぎ労働者のことです。第二次世界大戦でかなりの数のドイツ人男性が亡くなったために、労働力不足を補う目的でドイツが幾つかの国と二国間協定を締結しました。その中にトルコも含まれていて、1961 年からトルコ人がドイツに外国人労働者として入るようになりました。ちなみに現在ドイツでは、移民の背景を持つ人の中でもトルコ系移民が一番大きなグループを形成していて、総人口の 3.1% (255万人) を占めているようです。

Uğur Şahin 博士はそんなトルコ移民 2 世です。そして、彼が CEO を務める BioNTech 社の共同創設者は、Uğur Şahin 博士の奥さんである Özlem Türeci (オズレム・トゥレジ) 博士。Özlem Türeci 博士はイスタンブール出身で、父親がお医者さんだったようです。Özlem Türeci 博士も 4 歳の頃にドイツへ移住。この 2 人は 2002 年に結婚し、2008 年に夫婦共同で BioNTech 社を立ち上げました。

Ugur Sahin 博士と奥様.JPG

welt documentary - Youtube :トルコ人のスーパーカップル

この会社では主にがんの免疫治療の技術を開発していました。ワクチン開発とは一見すると全く分野違いに思えるのに、なぜこの会社がワクチン開発に乗り出したのか。Uğur Şahin 博士は、とあるインタビューで「コロナワクチンはがんの研究に役立ってきた。がんの研究はワクチンの研究に役立ってきた」とコメントしています。それにはこんな経緯がありました。

がんの専門医からワクチンの開発へ:技術編

ファイザー(モデルナ社もその後追随しました) のコロナワクチンは、メッセンジャー RNA (mRNA) ワクチンです。BioNTech 社は、世界で初めて mRNA ワクチンの承認を得た企業です。このワクチンについては、私のような素人が説明するまでもなく、いろいろなサイトで詳しく説明されていますので、ほんの簡単に触れさせていただきます。とはいえ、私はド素人。情報があいまいだなと思われた方がおられましたら、「ま、素人だから仕方ないね」と大目に見ていただければと思います。なお、ここに書いている情報の一部は、以下の Youtube に基づいています。

従来型のワクチンと mRNA ワクチンとで大きく違う点は、ウイルスそのものを体に入れないということです。従来型は、ウイルスの活性を失わせた不活化ワクチンと、弱毒化させた生ワクチンに分類されるようです(https://president.jp/articles/-/41537?page=1)。それに対して mRNA ワクチンは、免疫をいわばだまして、体に入っていないウイルスが入ったかのように思わせるものです。本当のウイルスが入ってきたときに、免疫細胞はそのウイルスと闘うことができます。つまり、mRNA ワクチンは、人体にこれまで入ったことがないウイルスを覚えさせる技術なのです。

では メッセンジャー RNA (mRNA) とは何ぞや? 人体の細胞内でたんぱく質を合成する際に情報を伝達するために使われている分子です。どの細胞内にも存在する分子です。この mRNA を体外で人工的に生成し、ウイルスの情報をコード化して体内にいれます。こうして免疫細胞に情報を伝達し、免疫細胞にこのウイルスを覚えさせるならワクチンとなります。免疫細胞はこのウイルスが体内に入ってきたとき、たとえそれが体内に初めて入ってきたとしても、それを見極めることができます。

ドイツの BioNTech 社は 2019 年まではがんの免疫治療にフォーカスした会社で、がんワクチンを作っていました。研究と臨床試験を重ねてきたのは、いわばオーダーメイドのがんのワクチンです。がんワクチンをオーダーメイドにするために、メッセンジャー RNA (mRNA) を遺伝子配列に応じて操作する (しかも可能な限り迅速に操作する) 技術を開発していました。

オーダーメイドのワクチンを生成するために必要なプロセスは、まずがん患者一人一人の遺伝子配列 (正常な細胞の配列とがん細胞の配列の両方) を比較し、がん細胞で起きている遺伝子の異常を見つけ出すこと。患者さん一人一人によって、遺伝子の変異の場所が異なるので、ワクチンも患者さんそれぞれに合わる必要があります。さて、この遺伝子の異常は、がん細胞の表面に抗体として現れます。遺伝子の変異の結果として現れた抗体の遺伝子配列を解析し、 mRNA でコード化して患者さんにワクチンという形で投与することで、がん細胞を免疫細胞に覚えさせます。

オーダーメイドのがんワクチン.JPGwelt documentary - Youtube :ガン患者一人一人に合わせたオーダーメイドのがんワクチン

mRNA はその後体内で消滅します。でも免疫細胞は引き続きその細胞の型を認識して攻撃することができます。その際、正常な細胞は攻撃されません。抗がん剤治療とは異なり、がん細胞だけを攻撃させるこのオーダーメイドの免疫治療。患者さん一人一人に合わせたものである必要があり、しかも数週間という短期間で生成する必要があります。専門的な知識がないのではしょりましたが、この療法は「ネオアンチゲン」と呼ばれ、日本でも実用化されているようです。

Uğur Şahin 博士と Özlem Türeci 博士率いる BioNTech 社は、こうしたメッセンジャー RNA (mRNA) を使ったがんワクチンの研究を25年前から重ねてきました。そして、遺伝子の配列に応じて mRNA をできるだけ早く (数週間で) 操作する技術を既に持っていました。今回、この技術をコロナワクチン開発に応用したのです。

通常、ワクチン開発には何年も (10年ほど) の時間がかかるといわれますが、個々の遺伝子に特化したワクチンを数週間で作る技術を今回のワクチン開発に適用した形になります。ですから、今回のコロナワクチンはたったの 11 か月で完成したというより、これまで長年温めてきた技術を当てはめたもの、その技術の集大成なのだそうです。

がんの専門医からワクチンの開発へ:心の動き編

技術を持ってはいても、企業が方向性を急転換させるのはそうそう簡単ではありません。がん専門というフィールドからコロナワクチン開発に実際に方向転換するのは大きな勇気と決断力が求められます。しかし、Uğur Şahin 博士と Özlem Türeci 博士は、コロナがまだパンデミックとして認識される前にワクチン開発を決意したのです。その心の動きを簡単に時系列で追いたいと思います。なおこれは、先ほどの Youtube のインタビューに基づいています。

2020 年 1 月 24 日

武漢でのコロナ発生がドイツで初めて報告され、とあるサイエンス誌に載せられたその情報を朝食時に読んだそうです。その時、これが世界的なパンデミックになると予感されたとのこと。その時点で多くの科学者は単なるローカルの (局所的な) 感染症だと思っていました。

Uğur Şahin 博士が世界的パンデミックになると確信した幾つかのポイントがあるようですが、その 1 つは、感染しながらも無症状である患者が一定数いるという報告だったそうです。武漢がメガシティ (巨大都市) で多くの航空会社のハブになっており、人々の往来が多いことなどを考えると、単なる局所的な感染症では終わらず、新しいパンデミックが既に始まっていると確信されたそうです。そして、その時にワクチンを開発しようと思い立たれたということ。

Uğur Şahin 博士と Özlem Türeci 博士は、すぐにワクチン候補を作ることに着手し始めます。その数なんと 20 種類。ワクチン自体は、mRNA を操作する技術を適用して数週間で完成したようです。

2020 年 3 月

アメリカのファイザー社に連絡を取り、ワクチン候補がある、共同で開発しないかと打診。というのも、小さなベンチャー企業では治験できる数が限られます。大々的な治験のためには大手と組む必要があるという判断をされたようです。このときのことを振り返って Uğur Şahin 博士は、これまでの常識では 10 年かかると言われているワクチン開発をこれまでのトラディショナルな方法にとらわれない方法で 1 年以内に完成させることを目標とし、1 秒も無駄にせずに 24 時間体制ですべてを迅速に行うことが一番のチャレンジだったと語っておられます。

2020 年 7 月

最終的なワクチン候補が定まりました。

2020 年 11 月 9 日

大きなニュースが世界を駆け巡りました。BioNTech 社の mRNA ワクチンの有効性が 90% 以上だという発表です。Özlem Türeci 博士は、開発のプロセスで一番手ごたえを感じた瞬間は、ワクチンの予防効果 (有効性) が第三機関によって証明されたこの時だったと語っておられます。

2020 年 12 月 21 日

欧州委員会がこのワクチンを承認。

開発の後には、製造することがチャレンジになります。世界中のすべての人のために作らないといけません。製造には、種々の原材料の確保が必要になります。この点もかなり難関で、原材料そのものの確保と質の確保のために、生産が一時はかなりスローダウンしたこともあったと語っておられます。

変異株の出現でワクチンが効かないのではないかという意見も多々あるようですが、博士自身は、変異株に適用させる技術に関しては問題ない、mRNA は非常に versatile (多目的) な分子で簡単に変更を加えられると説明しておられます。変異株に合わせてワクチンを数週間で調整する技術には問題がないということです。

仲良しこよしのご夫婦

夫婦二人三脚のこのプロジェクト。ワクチン開発というこの重要な局面で夫婦間の争いが起きたらどうするんですか? とインタビュアーがちょっと意地悪な質問を投げかけました。奥様の Özlem Türeci 博士は即答で、その心配はない、と。夫婦間の問題が起きるのはお互いが暇だから。今はやることが多すぎて、ケンカしている暇など全くないと、ユーモアを交えて答えておられました。きっとこれまでからずっと息の合った仲良しなご夫婦なんでしょうね。

Profile

著者プロフィール
木村菜穂子

中東在住歴17年目のツアーコンサルタント/コーディネーター。ヨルダン・レバノンに7年間、ドイツに1年半、トルコに7年間滞在した後、現在はエジプトに拠点を移して1年目。ヨルダン・レバノンで習得したアラビア語(Levantine Arabic)に加えてエジプト方言の習得に励む日々。そろそろ中東は卒業しなければと友達にからかわれながら、なお中東にどっぷり漬かっている。

公式HP:https://picturesque-jordan.com

ブログ:月の砂漠―ヨルダンからA Wanderer in Wonderland-大和撫子の中東放浪記

Eメール:naoko_kimura[at]picturesque-jordan.com

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