コラム

英王室から逃れたヘンリー王子の回想録は、まるで怖いおとぎ話

2023年01月14日(土)15時30分

ヘンリー王子の回想録は発売初日に英米加で140万部以上を売るベストセラーとなっている Peter Nicholls-REUTERS

<母ダイアナを守れなかったヘンリーが、30代後半にして妻メーガンを守るために行動を起こしたことは尊敬に値する>

私は英王室ウォッチャーではないし、ふだんタブロイド紙を含むゴシップメディアには注意を払っていない。オプラ・ウィンフリーがヘンリー王子とメーガン妃から話を聴いた有名なインタビューも、宣伝用の短いビデオを目にしただけだ。王室側とヘンリー王子側どちらのファンでもないということを最初に明記しておきたい。世界が注目しているヘンリー王子の回想録を、なるべく公平な視点で読むことを心がけた。

この回想録『SPARE』は、ヘンリーとウィリアムの祖父であったフィリップ殿下の葬儀の後のシーンで始まる。ヘンリーは父のチャールズと兄のウィリアムと内密に会うのだが、そこでウィリアムから「なぜ(王室と家族を)離れたのか?」と糾弾され、「本当に知らない(理解していない)のか?」と絶望的になる。その後に続くパート1は、母であるダイアナ妃を失った子供時代、パート2は英国陸軍に従軍した時代が中心になっている。

メーガン・マークルとの出会いから現在に至る状況はパート3なので、そこだけを読みたい人はいると思うが、ハリーの心理を理解するためには1と2を読む必要があるだろう。「死んだことになっている母が実は隠れていて、いつかまた再会できる」と自分に言い聞かせることで悲劇を乗り越えようとする少年は、英陸軍に従軍してアフガニスタンで極秘の危険な任務を遂行する体験でようやく成長を始める。

世継ぎと予備

タイトルの『SPARE』は、英国の貴族階級の間でよく使われてきた「the heir and the spare(世継ぎと予備)」という慣用表現から来ている。英国の貴族階級ではタイトル(称号とそれに伴う身分)を次世代に引き継ぐことが非常に重視されており、貴族と結婚した女性の最も重要な役割は世継ぎと、世継ぎに何かが起こった時のための予備(スペア)を産むこととみなされている。ハリーが誕生した直後にチャールズがダイアナに向かって「よくやった。これでおまえは世継ぎと予備を私に与えてくれたことになる。私の役目は終わった("Wonderful! Now, you have given me an heir and a spare - my work is done"」と言ったらしいことが、本書にも出てくる。このようにウィリアムとハリーは生まれた時からthe heir and the spareであり、周囲の期待や育てられ方もそれに応じて異なった。彼らは兄弟でありながらも、一般家庭での兄弟とは異なる関係性があり、それが2人の間に溝を作ったことが見えてくる。

将来、国王になる立場のウィリアムは、「他人から批判される余地がない正しい行動を取り、ゴシップの対象になっても対応せず、感情は見せない」という英王室独自のストイックさを教え込まれ、従順にそれを身に着けてきたかのように見える。だが、そういった教育をされなかったヘンリーは、学校で問題行動を起こしてタブロイド紙の餌食になり続けた。12歳で最愛の母を亡くし、自分が求める温かい愛情を父から受けられず、将来の目標を与えられることもなかったヘンリーが問題行動を起こすようになったのは容易に想像できる。だが、その一方で、常に正しい行動を求められる立場のウィリアムが「無責任にやりたいことができるスペア」に対してフラストレーションを懐き続けたことも想像できる。

ヘンリーの回想録にはタブロイド紙が彼の問題行動を誇張したり捏造したりしたことが書かれている。それは事実だと思うが、同時に若い頃の彼がかなり奔放だったことも事実であろう。エリザベス女王のスペアだったマーガレット王女、チャールズのスペアだったアンドルー王子がそれぞれに奔放であり、問題行動を起こしたことを思うと、この「spare」という立場そのものに問題があるのではないかという気がしてくる。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲うウクライナの猛攻シーン 「ATACMSを使用」と情報筋
  • 4
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 5
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさ…
  • 6
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 7
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 8
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    雪の中、服を脱ぎ捨て、丸見えに...ブラジルの歌姫、…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 6
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 7
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 8
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story