数十年におよぶ「宗教的な虐待」により「妊娠は病気」と信じ込んだ女性が、いま感じる後悔
The Church Made Me Childless
ワトキンスは半生を振り返った本で作家として知られるようになった COURTESY OF ANDRA WATKINS
<キリスト教保守派の環境で妊娠への恐怖を刷り込まれ、離婚してパニック発作を患った私が不妊手術を選ぶまで>
最近、アメリカのある判事は人工妊娠中絶に反対するキリスト教の超保守派の声を代弁してこう述べた。「妊娠は深刻な病気ではない」
私はサウスカロライナ州の保守的宗教組織「モラル・マジョリティー」が主導する中絶反対運動の渦中で育った。そして妊娠を絶対に避けるべき「病気」と見なして生きてきた。この環境のせいで今も子供がいない私には、判事の言葉は皮肉にしか聞こえない。
私は教会で、神から与えられた義務は女性として生殖を行うことだと教え込まれた。たとえ11~12歳でレイプされた結果妊娠しても、神からの聖なる贈り物として受け入れなければいけない。幼稚園の頃から、こうした類いの言葉を繰り返し聞かされてきた。
小学校では、血まみれの中絶反対映画を見ることを強いられた。思春期になると女子だけの礼拝で、肉体で男を誘惑しないようにと説教された。10歳で生理が来たとき、それが子づくりのサイクルの一部であることも知らなかった。10代になって書店で偶然見た本で、ようやくペニスとバギナ=子供だと知ったのだった。
母はピルを飲むと堕胎してしまうと信じていた。でも、もし私が10代の頃に避妊具を与えられていても、それを信用できなかったと思う。セックスしたら、うまく避妊できず妊娠してしまうと私は確信していた。だから男の子が私の膣に指やおもちゃ、性器を入れることを拒否していた。
10歳から結婚する23歳まで、私は「妊娠は絶対に避けるべき病気。妊娠したら人生が終わる」と呪文のように繰り返して、若い悶々とする体から性交を遠ざけた。
宗教的虐待こそが病気
私は結婚する前に初めて婦人科を受診して、母の立場に逆らってピルの処方を求めた。そこから、妊娠は病気だと15年近く自分に言い聞かせてきた私の避妊への執着が始まった。ピルを肌身離さず持ち歩き、毎日同じ時間に欠かさずに飲んだ。飲むのが遅れるとパニックになるほどだった。
挿入なしで夫を喜ばせられるなら、私はいつでも応じてあげた。自分の中以外で射精されることに安堵した。結婚が破綻した原因はいろいろあったけれど、私のセックスに対する消極的な姿勢と、妊娠の可能性に対する極端な恐怖は明らかな要因だった。
27歳で離婚したとき、それはセラピーを受けるちょうどいい機会のはずだった。でも私が育ったのは「キリスト教徒にセラピーは必要ない。聖書を読み、祈ればいいものを、なぜ世俗的なアドバイスを求める?」という環境だった。