ウクライナ避難民2000万の悲と哀──将来を見通せない人々...1年目の本音は
No Place Like Home
みんな、複雑な事情を抱えている。しかし聞いた話を集めてみると、そこには人々の苦しみ・悲しみだけでなく、絶対に負けるものかという不屈の精神が見えてくる。爆撃の回数や死傷者の数だけでは見えてこない戦争の素顔が、そこにはある。
ユリア(以下、希望があった人についてはファーストネームのみ記載)は北東部のハルキウにいた。空爆から身を守るため、最初の何日かは廊下や地下室で夜を明かした。そして昨年3月、すし詰めの列車で脱出した。10代の娘と、夫も一緒だ。既に総動員令が出ていたから、徴兵可能な年齢で健康な男性の出国は禁止されていたが、夫は糖尿病を患っていた。だから一緒にポーランドへ避難できた。
その後、ドイツに移った。夫は今、平時でもウクライナでは望めないような治療を受けている。だから、仮にロシア軍のミサイルが飛んでくる心配がなくなっても、一家で帰国する可能性は低い。
タクシー運転手のウォロディミルは、ウクライナ東部ドンバス地方の出身だ。彼の町は爆撃で壊滅的な被害を受けた。彼自身も昨年4月、ロシア軍の砲撃で2階の窓から吹き飛ばされて脳卒中を起こし、腰の骨を折った。
それからボランティアの運営するリハビリ施設に入れてもらうまでの3カ月間は、ウオッカを飲んで痛みに耐えた。今は月に約50ドルの障害者年金を申請中で、これからもずっと、このリハビリ施設にいたいと思っている。
砲撃を恐れ帰郷できず
アリョーナは最初のうち、ロシア軍に占領された南部ヘルソンで反ロシアのデモに参加していた。しかし地域の活動家が次々と姿を消し、何日も戻らない事態が続いたので、ついに国外へ逃れようと決めた。娘を連れて、まずはクリミア半島へ行き、ロシア領内を経由してジョージアに避難した。ロシアから出国する際の検問では、「親ウクライナ派であることを示すタトゥー」の有無を調べるためと称して、裸にされたという。
夫は船員で、この戦争が始まった2月24日には中国沖で商船に乗っていた。その後、ジョージアの首都トビリシでやっと合流できた。ヘルソンは昨年11月にウクライナ軍によって解放されたが、ドニプロ川の対岸からロシア軍が砲撃してくるので、まだ故郷に戻ることはできない。
ナタリアは南部ミコライウ州から来た。村にチェチェン人の戦闘員がやって来たのを見て、彼女は10代の娘3人の髪を短く切った。レイプされるのを防ぐためだ。彼らは若い女性に地下室から出てくるよう命じ、レイプするぞと脅していた。その後、ロシア軍の将校が制止したそうだ。