アメリカ政治・社会の価値観の理解に欠かせない、レーガンのレガシー
REAGAN’S MORNING IN AMERICA
状況が変わり始めたのは、60年代に大統領を務めたリンドン・ジョンソンが公民権擁護を民主党の主要政策の1つに据えてからだった。この動きに反発した南部の民主党保守派は共和党に移っていった。それにより共和党ではリベラル派が居場所を失い、この勢力は民主党に合流した。
このプロセスは30年ほどかけて進行し、90年代にほぼ完了した。それ以降、リベラル派の共和党員や保守派の民主党員はほとんど姿を消した。
こうした政治の大転換の途中で、レーガンは大統領に就任した。この点は、レーガン政権が成功する上で極めて大きな意味を持った。
「80%」の成果のほうを選ぶ
レーガンは保守派ではあったが、常に現実主義者であり続けた。レーガン政権で首席補佐官と財務長官を務めたジェームズ・ベーカーによれば、レーガンは「妥協せずに崖から転落するくらいなら、目標を8割達成することを選ぶ」と述べていた。
選挙に勝つ目的は政治的得点を稼ぐことではなく、国を治めることだとレーガンは考えていた。大統領時代には、下院議長を務めていた民主党のトーマス・P・オニールと頻繁に面会し、税制、福祉、公的年金、移民、国防など、さまざまなテーマで次々と妥協案をまとめた。
保守派の民主党議員がたびたび造反したこともあり、レーガンはたいてい「80%」の成果を得ることができた。
外交でもタイミングが味方した。レーガンは、政界入りする前の俳優時代から筋金入りの反共主義者だった。映画俳優組合の委員長を務めた頃は、映画産業の労働組合から共産主義者を排除しようと奮闘したこともあった。
大統領に就任すると、当時の共産主義大国・ソ連に対する政策を大きく転換させた。ソ連に対する「封じ込め政策」を継承せず、ソ連との冷戦に勝つための戦略を選択したのだ。国防力を強化し、軍拡競争を宇宙に拡大することも辞さずに「戦略防衛構想(SDI)」を推進した。
冷戦下で東西に分断されていたドイツの西ベルリンを訪れた際は、ベルリンの壁の前で「この壁を壊しなさい」とソ連指導部を挑発した。だがレーガンのこうした行動は、はかばかしい成果を上げなかった。歴史の歯車が冷戦終結へと回りだしたのはソ連に改革派の指導者ミハイル・ゴルバチョフが登場してからだ。