「ポスト冷戦期」を見届けた後
とはいえ、歴史の回転は考えてみるとかなり早い。『アステイオン』の三〇年間は、歴史が大きく一回りするのに十分な年月である。考えてみれば、ベルリンの壁が建設されたのは一九六一年。それが一九八九年に壊されているのであれば、ベルリンの壁が存立していたのはたかが二八年間に過ぎない。ベルリンの壁が崩壊して以後の年月は、二〇一七年で二八年間となる。ベルリンの壁が存在していた期間よりも、それが崩壊してからの時代の方が長くなりつつある。冷戦崩壊前後の混乱期に、ポスト冷戦の時代とはどのようなものになるかを、その当時の「イキのいい」学者を集めて羅針盤を示そうとした『アステイオン』は、今度はポスト冷戦の時代の終わりを見届け、「その先」を示してくれる、新たな書き手を集める場所となるべきなのだろう。
冷戦の崩壊期に創刊された『アステイオン』は、今やポスト冷戦期の崩壊なのかあるいはその再編なのか、とにかく新たな不透明な時代に三〇周年を迎え、気づけば古参の「老舗」となった。その間に、雑誌という媒体が置かれた環境は激変していた。
かつて『アステイオン』は、『文藝春秋』や『中央公論』や『世界』、あるいは『諸君!』や『論座』などの、総合誌や論壇誌と呼ばれる月刊誌の一群の中で、それらに肩を並べつつ、特別の地位を占めていた。『アステイオン』で健筆を揮った著者の多くは、総合誌や論壇誌にもしばしば名を連ねたが、『アステイオン』に書く時にはまた別格の格調の高さを求められ、自然にその要求水準をこなしていたように思われる。ところがその後、月刊誌の多くは休刊となった。なおも残る数少ない雑誌は、高年齢層にターゲットを絞った紙面構成や、左か右かに極端に偏った論調で露命を凌ぐのみである。
出版市場が隆盛で、各社が競って週刊誌・月刊誌を刊行し、読者層を開拓し、書き手を集めていた時代に、季刊というやや悠長なサイクルで、しばしば高尚な議論に専念できることこそが『アステイオン』の初期の時代の強みだった。サントリー文化財団に全面的に支援されて目先の読者を追う必要のない『アステイオン』は、商業誌が開拓し種を蒔いた雑誌文化の「上澄み」をもらうという、かなり「おいしい立場」に立てた。そういった条件が、一つ一つ失われていく中で、おそらく『アステイオン』も人並みの苦労をしたのだろう。相次ぐ判型の変更や、一九九九年の季刊から年二回刊への変更などは、試行錯誤が形に現れたものなのだろう。
雑誌の苦難はいうまでもなく、メディアと情報の技術の変化に起因している。インターネットの普及とSNSの広がりは、既存の雑誌の存立する根拠の多くを奪った。速報性でも、過去の記事の検索の容易さでも、紙媒体は電子媒体にはるかに劣る。特に「月刊誌」がその名の通り「月に一度」出すというサイクルは、国内や国際社会で生じて来る事象に対応するのにもっとも相応しくないものになってしまっている。何か大事件が起きた時に、取材し、原稿を依頼し、論考が出てきて、校了して、市場に出す頃には、インターネットで全ての情報伝達と議論が終わってしまっている。情報が最も古くなった時に手元に届くという間の悪さである。『アステイオン』は、年二回刊という、かつての月刊誌全盛の時代から考えれば随分と控えめのサイクルで刊行するようになっているが、これはかえって再び「おいしい立場」に立てるきっかけともなりうる。新聞も週刊誌も月刊誌も、特に速報性で、インターネットやSNSに敗れつつある。しかし、半年に一度となってしまえば、もう速報性は関係ない。むしろ、インターネットやSNSで一時的に騒がれ、すぐに忘れ去られてしまった重大な事象を、改めて掘り起こし、まとまった形で読者に示す役割を追う、数少ない媒体となれる。