テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1)
逮捕されたプリンツィプは、大公が「将来の君主として、一定の改革を達成することによって、我々の統一を妨げたであろう」と言っている。第一次世界大戦の開戦過程を描いた名著『夢遊病者たち』で、歴史家クリストファー・クラークはこう指摘している。テロ活動の論理からすると、明白な敵や強硬派よりも、このような改革派や穏健派の方が恐れられるのである、と。
暗殺の波紋はゆっくりと広がったが、大戦に発展する兆しはなかった。ただ、この暗殺によりオーストリア政府内では、セルビアに対して武力行使も辞さない強硬措置を取ろうとする意見が急速に台頭する。この時点で明瞭な証拠はなかったものの、暗殺の背後にはセルビアがいるか、あるいはセルビア政府は凶行を少なくとも黙認していた、と推察したのだ。
これまでオーストリアで対セルビア強硬策が取り沙汰された時、常に待ったをかけてきたのはフェルディナント大公であった。しかし、皮肉なことに大公その人が殺されたのである。我慢にも限界があるという強硬派の申し出を受け、老皇帝は二重帝国のもう一方であるハンガリーの首相イシュトヴァーン・ティサの同意を条件とし、強硬措置を認めた。
似た者同士――ヴィルヘルム二世とフェルディナント大公
老皇帝がどの程度、大公の死を怒り悲しんだかには諸説がある。ただ、老皇帝よりも怒り悲しんだ可能性が高いのは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世であろう。大公暗殺の報は、すぐにドイツ北部のキールでヨットレースを楽しんでいたカイザーに伝えられた。
カイザーは大公としばしば狩りをする間柄であった。サライェヴォ事件の二週間ほど前である六月一二~一三日にも大公夫妻に招かれて親しく交遊し、スラヴ問題について意見を交わしたばかりである。カイザーは五五歳で、五〇歳の大公と年齢も近い。また、両人は落ち着きがなく、虚栄心に満ちた性格でも似た者同士であった。ただ、カイザーはハプスブルク家の人々と異なり、ゾフィーと分け隔てなく接したので、夫妻にとってはつきあいやすい相手であった。
暗殺を知り、カイザーはすぐにベルリンに引き返す。七月二日、オーストリア政府内の見解を伝えるドイツの駐ウィーン大使の報告書を読んだカイザーは、その余白に「セルビア人は一掃されねばならない、それもすぐに!」と書き込んだ。後世の歴史家には、この書き込みこそがドイツ外交が過激になった転換点を示す証拠であり、「勅令」と同じ効果を持ったとさえ論じる者もいる。しかし、すぐに激昂するカイザーの性格や、書き込みにすぎないことから、そこまで重視すべき事柄ではないと思われる。
七月三日、大公夫妻の葬儀がウィーンで行われた。カイザーは呼ばれれば参列したであろうが、フランツ・ヨーゼフは他国の君主を招く気はなかった。安全確保の問題もあったが、体調のすぐれない老皇帝は平穏な日常生活に一日も早く戻りたかったのだ。大公の葬儀で、老皇帝とともに、カイザーやロシア皇帝ニコライ二世(慣例でツァーとも呼ぶ)などが一堂に会していれば、大戦が回避されたかは別として、事態は違う展開を見せたであろう。
※シリーズ第2回:ロシアの介入はないと無責任な約束をしたドイツ――第一次世界大戦史(2)
『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
飯倉 章 著
中公新書