テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1)
一九〇〇年六月二八日、ウィーンのホーフブルク宮殿で、フランツ・ヨーゼフは一族の大公たちを脇に従えて宣告する。結婚は承認するが、ゾフィーの「高貴ではあるが対等とは言えない出自」ゆえに、フランツ・フェルディナントが戴冠しても彼女には皇后の称号を与えず、その子にも皇位継承権は認めない、と言ったのだ。フェルディナント大公はその条件を呑み、二人は三日後に結婚式を挙げた。老皇帝はもとより、他の大公たちも式を欠席したが、彼はその恋を貫いたのである。
身分違いの結婚のため、ゾフィーはハプスブルク家の公式行事で夫の隣に座ることも許されなかった。二人が死出の旅路となるサライェヴォに赴く時でさえ、途中までは別々に向かっている。ただ、その年の六月四日、フェルディナント大公が結果として最後になる拝謁をしたとき、老皇帝は危険が予想されていたにもかかわらず、ボスニアでの軍の大演習に彼が参加することに反対しなかった。あまつさえ、あたかも後押しをするかのように、ゾフィーが「多かれ少なかれ対等」の立場で同行することも認めた。
愛ゆえに危険なサライェヴォに赴いたと言えば、言いすぎではあろう。しかし、ハプスブルク家の厳格なしきたりと闘い続けてきた大公にとって、この訪問は身分違いの結婚から生じた不本意な処遇を改善する好機でもあった。現在、写真で目にすることができる、オープンカーで並んだ夫妻の姿は、サライェヴォだからこそ実現したのだ。
フランツ・フェルディナント大公は、知性はあるが怒りっぽく頑固で、自分の意見に固執する傾向があった。一方、ゾフィーは、大公の怒りっぽい性格を補える、健全で心のどかな女性であったという。二人は相性が良かったのだろう。子宝にも恵まれ、暗殺の時には二男一女がいた。大公は家庭生活に満足し、家族を心底愛していたという。
テロリストの最初の一弾は、車のドアを貫通してゾフィーの腹部に、第二弾は大公の首筋に命中した。車中で大公は、意識を失った妻に「ゾフィー、ゾフィー、死なないでくれ、子どもたちのためにも生きていてくれ」と語りかけた。しかし、願いはかなえられず、大公自身もほどなく絶命する。
まえがきで述べたような高まる民族意識を背景に、「黒手組(ブラックハンド)」と呼ばれるセルビア民族主義者のテロリスト組織は、オーストリアに併合されたボスニア出身のセルビア人青年らに訓練を施していた。そして、彼らに武器を渡して、一九一四年五月末にボスニアへ送り込んだのだ。大公夫妻を撃ったのは、その一人のガヴリロ・プリンツィプである。
大公は、テロの標的となるような対セルビア強硬派だったのだろうか。むしろ、彼はセルビア人を含むスラヴ民族に宥和(ゆうわ)的で、帝国内のスラヴ人地域により多くの自治権を与えようとしていた。しかし、このような考えこそ、民族の支配地域を拡大したうえで統一を図ろうと考える人々にとっては脅威であった。