いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く3 (ポール校長の授業)
広報の谷口さんはダイニングとホールをはさんで向こう側の部屋群で、たぶん仮眠を取っているはずだった。助けも呼べない。
がちゃがちゃやってはため息をついていると、隣の部屋からふわっとアフリカ人があらわれた。Tシャツにコットンパンツにサンダルという姿だったと思う。確か屋敷到着のあと一瞬だけ挨拶をした青年で、とても優しく握手をし、すぐに荷物を持とうとしてくれたり、眠くないかと話しかけたりしてくれた人だった。吃音があったが、しゃべるのをやめない明るさと勇敢さがあった。
名をオルモデと言った。
俺は彼の腰があまりに低いので、すっかり屋敷の管理人の一人だと思い込み、
「これ、なんとか直らないですかね?」
とちょっと苦情交じりの調子で言った。おかしなピッキングをしてしまったのは自分なのにだ。
オルモデは俺の手からそっとカギを受け取り、何度も錠の中に入れて試し、そのうち同情に満ちた顔つきで、
「下の階に行って、マスターキーを探してきます」
と申し訳なさそうに言った。
「お願いしますよ!」
と俺はその背中に呼びかけたものだ。おそらく俺が出かけたあと、彼はありとあらゆる方法を実行したのではないか。
結局、オルモデはドアを開けることが出来ず、カギは差したままで置かれていた。
そして、その夜の楽しい夕食を済ませての帰宅のあと、俺自身があの変な感触でもって錠を無理やりこじ開けてしまうのだが、そんなことよりその青年、オルモデ・ファニヤンがナイジェリア出身の優秀な疫学の医師で、MSFのミッションを終えてアメリカの研究室に移る時期だったことを、俺は数日後に知る。
他人の苦境にすぐさま反応して解決に尽力してしまう人間を、俺は"ドアも開けられない管理人"だと見くびっていたのだった。自分中心でない人を。
あの優しい青年を。
濃い一日の終わり
ああ、色々書くうち、日本人スタッフの菊地紘子さんと待ち合わせて出かけた、限られた安全な地域にあるレストランでの夕食時の話を紹介するスペースがなくなってしまった。
イースターならではの愛らしいサマーワンピースであらわれた若き看護師である彼女が小型犬を連れて来たように見えたけれど、その犬は隣の屋敷から勝手について来てしまったまったく知らない動物であること、彼女がすでに中央アフリカで二年ほどのミッションを終えていること、「ハイチは道路が舗装されていますから恵まれています!」とレストランでうれしそうに言ったこと、彼女もまたマリーンのように「MSFで働きたくて看護師になった」こと、より厳しい状況に置かれたアフリカの国々で医療をしたいがために学生時代にフランス語を習ったこと、などなどを記事にするのは大変有意義だと思うのだが、他の取材でのさらに興味深い彼女のエピソードがてんこ盛りにある。
だから、俺はこのへんで部屋に戻ろうと思う。
カギが錠の穴に差し込まれたままの、時がまちまちに進んでいるあの四角い部屋に。
俺はそこの扉を自力で開けることをすでに知っているのだし、部屋の中には日本から持参した蚊取り線香も蚊よけスプレーもあるのだ。
初日から個性の強い人々に会い過ぎて、俺はそれなりに混乱しており、固いベッドの上で蚊帳にもぐり込んですぐにだらしなく眠り込むだろう。
イタリアンレストランで飲んだハイチの地ビール、プレステージも時差ボケの頭に効いているに違いない。
レストランの向かいの公園で若いハイチ人たちが音楽をかけて盛り上がっていた様子を俺は夢に見てもよかった。菊地紘子さんはいつでも中をのぞきたいのだけれど、そこは特に夜は接近禁止だと言っていた。普通に外食している場所が、すでにMSFの四駆でなければ移動してはいけないエリアの中にあった。
そういうちぐはぐな生活が俺にも始まっていた。
追記
この連載を始めてすぐ(4/27夜)、シリア北部のアレッポでMSFが支援している病院が空爆された。
この記事がくわしいのだが、最初の段階で少なくとも医師2人を含む14人が亡くなっている。
すでにこうした攻撃は何度も行われており、ロシア軍によるものともシリア政府軍によるものとも言われている。また、アフガニスタン北部クンドゥズでは昨年10月、アメリカ軍による「誤爆」があったばかりだ。
『国境なき医師団』は患者がどちらの勢力であるかにかかわらず医療を施す。
攻撃されることは、絶対に許されてはならない組織である。
「医師2人を含む14人」という一文がすでに俺には、日々の中で流れていってしまう海外ニュースではない。
亡くなった医師、スタッフ、あるいは患者は、俺にとって顔も名前も仕草も知っているポールでありモハメッドでありマタンでありマリーンでありオルモデであり紘子さんであり谷口さんなのだ。
善意を差し出して他人のためになろうとする者の命、人生、生活、子供の頃からの個人史、息づかい、家族との関係、まなざし、口調、そしてこれからの日々を短い爆撃で消してしまう権利が誰にあるというのか。
圧倒的に弱い立場にある患者たちのそれらも。
俺はこの非道な行為をしつこく非難する。
そのためにもこの連載で、より登場人物の人間らしさを描くよう心がける。
死は数字ではない。
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。