いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く3 (ポール校長の授業)
途中、ユーモラスな表情でモハマドが俺の背後を指さした。ガサガサ音がして、枯れ葉の中を大きなトカゲが通るのがわかった。そのトカゲにさえ気をつける必要があるのかと俺は思ったが、毒があるのかとか噛むのかとか確認するのはためらわれた。我ながらナーバスになり過ぎているのではないかと思って。
次に邸内に戻り、フランスから来ているマリーン・バーセットという女性看護師にレクチャーを受けた。主に妊産婦のこと、未熟児のこと、性暴力被害のことなどについてだが、これらに関してはのちのち病院や救援センターを訪ねたレポートを書く予定なので重複を避ける。ともかく、医療コーディネーターを務めるマリーンはハイチの様々な状況を説明しては苦笑し、何度か頭を振った。
「ひどい話」
と言いながら。確かに残酷なデータが多かった。やせ型でめがねをかけ、ノースリーブから出した肩にそばかすが見えているマリーンは少し疲れているように感じられた。
そろそろ宿舎に移動しようということになった。彼女も同じ宿舎で生活しているので、ひとつの四駆に乗っていきましょうと言われた。
帰り支度を始めた彼女に、
「あなたは看護師ですよね? 何をきっかけにMSFに参加したんですか?」
と聞いてみた。
今回、会う人ごとに投げかけようと思っていた質問だった。
すると、マリーンは初めて柔和に、そして恥ずかしげに微笑み、フランス訛りの英語でこう答えた。
「逆よ。MSFに入りたくて看護師になったの」
理解に一瞬時間がかかり、そのあとジーンとシビれてしまった俺をしりめに、マリーンはバッグにすべてを詰め終え、立ち上がって薄暗い部屋から明るみへと出ていった。
宿舎にて
マリーンとポールと谷口さんと四人で「帰った」宿舎は、センターから車で15分くらい登った山の邸宅群の中にあった。
狭く急な坂道沿いの宿舎の鉄扉が開き、四駆が中の斜面をぐらぐら上がっていくと、山肌に庭があり、芝生が生え、たくさんの木が伸び、屋敷のあちこちからブーゲンビリアが赤く垂れて咲いているのが見えた。まるで優雅な別荘のようで、俺は自分の目が信じられなかった。
しかし二階建てのそこに多くの部屋があり、シャワー施設やトイレが複数存在し、キッチンが充実していること、あるいは鉄扉の入り口脇にガードマン(ただし丸腰。MSFの施設に入るにはあらゆる武器が放棄されねばならない)の小屋のスペースがあることなどを思えば、確かに次々交替していくスタッフの拠点として適していた。おそらく借り賃も手頃なのだろう。ポールの見積もりかもしれない。
そして何より、よく見てみれば、庭を囲む塀の上には厳重に鉄条網が巻かれていた。内部は「優雅」だが、少しでも外に出れば「緊張」が支配しているのだ。
部屋をもらい、入っていくとタイル床の真ん中に四角いベッドがあり、その上にピンク色の蚊帳が吊ってあった。窓際には簡素なテーブル。その上でカーテンが半分閉じられていたが、窓の上の左右に飛び出た木枠に棒が渡され、そこにカーテンの輪っかが幾つか通されているだけなので、気をつけて操作しないと落ちてきた。
蚊は大敵だった。特にその頃はデング熱に注意しなければならなかった。
俺は待ち合わせまで二時間あったのでスマホに話しかけて目覚まし時計のアプリをセットし、出発直前までピンクの蚊帳の 中で仮眠することにした。
すぐに眠気は来た。しかしコール音で起こされたのは感覚的にわりとすぐで、まるで泥の海から立上るようにして俺は覚醒せざるを得なかった。時差ボケがなぜこんなにひどいのかと、ベッドに腰をかけたまま、何度も腕時計とスマホを見比べた。胃がムカムカしていた。
宿舎到着の直後に、ポール校長が言っていたことを思い出した。
今はサマータイムなのだけれど、それを海外に宣言するのが遅れただか、しなかっただかで、非常にローカルな形でハイチ時間が進んでおり、つまり飛行場で教わって直した腕時計の時間と、WIFIでつないでいるスマホの世界時計上の時間がちょうど一時間違っているのだった。
俺はぐらぐらする頭でそのまま起き、シャワーを浴びたように記憶する。
そして部屋のドアにふたつあった錠をロックしてみようと思いつき、テーブルの上にあったカギを下に入れ、上にも入れた。通常どちらかしかかからないカギが、なぜだろう下にかかったまま、上にもかかった。上の錠の奥の方におかしな感触があったから、あり得ないことを起こしたのは上だろうと思われた。
俺は自分の部屋から締め出された。
カギをいくら再び錠の中で回してもびくともしない。
そのままだとどう困るかを、薄暗い屋敷の中で考えた。まずメモ帳がない。数日となると着替えもなく、帰国時のパスポートも飛行機のウェブ予約を印刷した紙も中だった。次第に俺は、自分が窮していくだろうことがわかった。