戦時下「外国人抑留所」日記
「昨夜、部長(編注)が友人を連れて来てお楽しみだった。我々にはパンもなく、小さなサツマイモの一かけしかなかったのに、部長たちは今朝猟に行くのに持っていくサンドイッチのため、我々のパンを使ってしまったらしい。彼は毎週のように友人を呼び、彼等の食事は我々の配給から出てくるのだ」(11月1日、英文)
ただ赤十字の支援品なのか、戦時下の統制経済では不自由だったはずのコーヒーやピーナッツバター、そしてタバコが日記にはよく登場する。
「外事部長からのプレゼントとしてシャツ、下着、靴下が届いたが、後は月曜日に配られるそうだ。お土産は何時でも歓迎。ピーナツバターにも関わらず一日中腹ぺこ。タバコは今日は吸わず」(11月25日、英文)
イギリス人であるデュアは日本にとっての戦局悪化、つまり連合軍による太平洋での反抗をいいニュースとして受け止める。しかし母親が日本人で日本で生まれ育った彼は、同時に空襲下で逃げまどう日本の庶民に同情もする。
「一時頃B29らしいのが我々の真上を、東京を目指して飛んで行った。紺碧の秋の空。箒で掃いたような巻雲の間を四つの細い白い尾を曳いて堂々と敵の都へ飛んで行く。壮観なるかなB29。大にやれ、B29。然し、然し、罪なき非戦闘員のみは赦し給え」(11月26日、日本語)
「凄いサイレンの音がする。周章狼狽してバケツを持って駆け回る哀れな人々の光景が目に浮かぶ。我々は温かい布団の中で鼾をかいている」(11月30日、日本語)
飢えに加えて山での薪採取、食糧運搬、農家の手伝いといった作業で弱ったデュアは、足柄山の豊かな自然を眺め、わずかな慰めを覚える。年を越え、寒さとしもやけに悩みながら、強制収容されず横浜市内に住み続ける母と弟エドワードの訪問と差し入れを待つ日々。しかし戦局は坂を転げるように悪化し、ついに母と弟の住む横浜をB29の大編隊が襲う。
「続々とB29が上空を通った。空は曇っては居たが雲が割に高かったのとB29が割に低く飛んでたのでよく見えた。四〇〇機程京浜地方に来たらしい。我々の上を通った機も二三百あったろう。攻撃目標は横浜、川崎だったらしい。横浜方面に物凄い煙が乱雲のように濠々と沖しているのが見えた。あゝ、母とエディはあの下にいるのか。無事でいて呉れればいゝがなあ」(5月29日、日本語)