撲滅まであと一歩だったのに...ワクチン否定派に、元ポリオ患者の私が感じる怒り
“Absolutely Ridiculous”
3歳からバイオリンを始めたパールマンはポリオにかかり足に障害が残った後も夢を諦めず、世界的な奏者になった JAMES DEVANEYーWIREIMAGE/GETTY IMAGES
<4歳でかかった小児麻痺により足に残った障害を乗り越え、世界最高峰バイオリニストとなった筆者が、いま憤るポリオ再流行とワクチン忌避>
1949年、4歳のとき私はポリオにかかった。最初のポリオワクチンが発表されたのは55年だったから、数年の差で間に合わなかった。ある朝、目が覚めて起き上がろうとしたけれど、立てなかった。何かおかしいと思った。ベッドに寝たまま、窓の外の太陽を見ていたことを覚えている。毎日、毎日、同じ景色だった。腰椎穿剌(せんし)の検査がとにかく痛かった。
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当時暮らしていたイスラエルのテルアビブで入院したのは数週間だったが、それを境に人生が一変した。ポリオになる前はおもちゃで遊んだり、キックボードで走り回ったりするのが大好きだった。
もっとも、病気になる前のことは実はあまりよく覚えていない。変わったのは、歩けなくなったということ。私は下肢の装具を作りに行った。義肢と、義肢に履く特別な靴の寸法を測った。こうして松葉杖で歩くようになったが、それまでとは完全に異なる経験だった。
幼いうちは経験値が少ないから、変化に慣れやすいともいえるだろう。私は歩けるようになってから、まだそれほど年月がたっていなかった。
病気になったことを恨まずに、人生を変える出来事として受け止めようと思った。義肢を着けて歩くことにはなったが、肺や腕に影響が出なかったことは幸運だった。「鉄の肺」(首から下を覆う鉄製の大型タンク式の陰圧人工呼吸器)に入らなければならない子供もたくさんいたが、私は人生が想像していたのとは違う方向に進み始めた、というだけだった。
当時は多くの人がポリオの治療法を見つけようとしていた。私の実家にも、代わる代わる誰かが来ては新しい「治療法」を紹介したが、効果はなかった。「こんな食事がいいらしい、こんな体操がいいらしい。この方法は完璧だから、きっとまた歩けるようになる」。私の家族には、普通に歩けるようになることはないのだという認識が、少し欠けていたのかもしれない。
当初はプロ奏者として受け入れられず
両親に励まされて、私は音楽を続けた。病気になる前から音楽の道に進みたかったし、両親も私がこれだけ興味を持っているのだから、やめさせる理由はないと思っていたようだ。バイオリンは足ではなく手で弾く。私の両手は元気だった。
プロの奏者になった当初は、なかなか周囲に受け入れてもらえなかった。ポリオの影響にばかり目が行って、私が音楽的に何ができるかを見てもらえなかったのだ。そんな小さな問題はあったが、私は努力を続けた。
ただ、一つ大きな問題があった。私を音楽で判断してもらうにはどうすればいいのか。「あなたは歩けないのに素晴らしい演奏をする」などと言われたくなかった。